第二項 神道――近代社格制度と港区域

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 慶応三年(一八六七)一二月に発せられた、いわゆる「王政復古の大号令」には、「神武創業之始ニ原(もとづ)キ」統治を行うことが盛り込まれた(『法令全書』 慶応三年)。これには、国学者の大国隆正、玉松操の影響がある。そもそも、古代の律令制下においては、神祇官という役所が、天神地祇の祭祀を執行し、諸国の官社を統轄するなど、神祇行政全般を司っていた。幕末以降、国学の興隆や神国意識の高まりから、神祇官を再興すべきであるとする神祇官再興運動が展開された。祭政一致が国柄の象徴である、との思想である。
 明治政府はこれを継承し、祭政一致を実現すべく、翌四年三月に、神祇官の復興と神社・神官の神祇官附属を宣言した。さらに、翌月に発せられた「五ヶ条ノ御誓文」は、明治天皇が天地神明に誓う形式がとられたのである。前後して慶応四年一月に神祇事務科、二月に神祇事務局が設置された。同年閏四月には、政体書の公布に伴い、神祇官が設けられる。明治二年(一八六九)七月の「職員令」公布にあたって、神祇官は太政官の上位に位置付けられた。
 明治政府は、一連の政策のなかで、石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)や春日大社(奈良県奈良市)などの計一七社を、勅使が参向して祭祀が執行される勅祭社に選定した。明治元年一一月、これに伴い、東京近郊の主だった神社一二社が、勅祭社に準ずる准勅祭社と定められた。港区域では、芝大神宮(芝大門一丁目)と赤坂氷川神社(赤坂六丁目)が准勅祭社に選定されている。このうち芝大神宮には、一一月一五日に神祇官判事の植松雅言(うえまつまさこと)が官幣使(かんぺいし)(勅使)として参向した。
 なお、神社にも神仏分離の影響が多分にあった。例えば、芝大神宮の大祭である。明治二年九月の神幸祭において、神輿が担がれた。これは、江戸時代にはみられなかったことで、神道色を出そうとした結果であろう。また、赤坂氷川神社は、氷川明神から改称した。仏教的な神の呼称である「明神」を避けたのである。さらに、別当大乗院が廃寺となった。
 神社が、街に活況をもたらすこともあった。江戸時代、金刀比羅宮(ことひらぐう)(虎ノ門一丁目)や鹽竈(しおがま)神社(新橋五丁目)などは、武家屋敷の邸内にあった。これらの多くは、徐々に一般の人の参詣を認めていった。明治維新後、神社が旧主から独立すると、大名屋敷の荒廃などから苦境に陥り、これまで以上に自由な参拝を認めた。その結果、参拝客に目をつけた商家が増え、神社の周辺は随分繁盛したという。
 さて、明治四年五月、太政官布告第二三五号「官社以下定額及神官職員規則ヲ定メ神官従来ノ叙爵ヲ止メ地方貫属支配ト為シ士民ノ内ヘ適宜編籍セシム」が公布された。このなかで、平安時代の延喜式の社格制度を踏襲した、近代社格制度が定められ、神社の格は、官社と諸社に大別された。官社は官幣の大中小社、国幣の大中小社がある。前者は神祇官が、後者は地方官が祭るものとされた。そののち、いずれにも分類できない神社として、別格官幣社が設けられた。諸社には、府・県社、郷社がある。追って、郷社の下に村社が設けられた。
 郷社は、出生や引っ越しの際に守札を発行して氏子を管理することなど、今日の区役所に近い機能を果たすことが期待された。これは、近代社格制度の制定と同時期に定められた壬申戸籍(じんしんこせき)と密接に関係している。身分に基づき整理されていた江戸時代の戸籍に対して、壬申戸籍は地域を中心に考えられたものである。村社が従来の氏子区域の氏子を把握し、それを郷社に集めて氏子台帳を作成する、という構想であった。しかし、神社の氏子区域が行政的な戸籍区と一致しておらず、また過重な負担が生じたことなどから、明治六年五月、氏子調べは中止となった。
 なお、社格は、国家による待遇の差を表しているものの、実質的な差異はなく、その神社への崇敬の厚さを表したものでもない。
 近代社格制度が定められて間もなくの港区域の状況は、どのようであったのだろうか。港区域に官幣社はなく、府社は芝大神宮、金刀比羅宮の二社である。芝大神宮は、それまで芝神宮という名称であり、飯倉神明宮、神明宮などと称されていた。府社に列せられたことから、明治五年八月に芝大神宮と改称したのである。府社についてはその後、明治一三年二月に赤坂氷川神社が郷社から府社に昇格し、大正一三年(一九二四)八月に乃木神社(赤坂八丁目)が新たに府社に列した。
 郷社は、東照宮(芝公園四丁目)、八幡神社(虎ノ門五丁目)、御田八幡神社(三田三丁目)、麻布氷川神社(元麻布一丁目)の四社である。村社は、芝区内に一〇社、麻布区内に四社、無格社は芝区内に一六社、麻布区内に五社、赤坂区内に八社であった。なお、社格は流動的であり、神社調査の進展などにより、新たに列格する神社や昇格する神社が相次いだ。
 明治一五年(一八八二)時点で、港区域の神社数は表1-6-2-1のとおりである。
 東京市一五区全体でみたとき、芝区の神社数は無格社を除き、すべてで最多であった。参考までに、一五区全体で唯一の官幣社は麴町区(現在の東京都千代田区)の日枝神社であり、唯一の別格官幣社は同じく麴町区の靖国神社である。
 近代社格制度の制定後、寺院から神社となった例として、東照宮(芝公園四丁目)がある。東照宮は、もともと徳川家康の追善のために増上寺(芝公園四丁目)の境内に建立され、一般には安国殿と称されていた。ところが明治六年六月、増上寺から独立すると、御神像を本殿に安置し、郷社に列したのである。この理由については諸説ある。神仏分離の一環であったというもの、官幣社に格付けられるとの風聞を受けて神社化したというもの、増上寺が仏教・神道のいずれとも良好な関係を構築しようと考えたというもの、などである。
 神社の移転もあった。代表的なものを挙げると、水天宮(東京都中央区)が、明治四年七月に一時的に赤坂区内へ移転された。これは、水天宮を祀っていた久留米藩有馬家の邸宅が赤坂に移ったためである。もっとも、翌五年四月には、水天宮は赤坂区を離れ、蠣殻(かきがら)町(現在の東京都中央区蠣殻町)に移転した。
 (久保田哲)
 

表1-6-2-1 明治15年(1882)における港区域の神社数
東京府『東京府統計書 明治15年』(1884)をもとに作成