明治政府が新たな時代の理念として掲げた一つに、天皇親政(てんのうしんせい)がある。二五〇年以上続いた江戸幕府に代わるため、天皇を精神的支柱に据え、国民統合を志向したのである。そのため、神道の国教化が宗教政策の根幹となり、まずは古代より継続する神仏習合の解消が目指された。こうして慶応四年(一八六八)三月一七日以降、一連の「神仏分離令」が公布された。これは、神仏習合を禁止し、神社から仏教的要素を排除することが主眼であった。したがって、別当や社僧に還俗(げんぞく)を命じたほか、仏教的用語の使用禁止、仏像や梵鐘の取り外し、神職者の神道式葬祭の実施などが盛り込まれた。しかし、復古神道(ふっこしんとう)を信奉する者たちに加え、それまで寺院僧侶の配下にあった民衆たちが仏像や伽藍(がらん)、経典などを破壊する、廃仏毀釈が全国で相次いだのである。
廃仏毀釈は、慶応四年四月一日の日吉神社(滋賀県大津市坂本)が嚆矢(こうし)とされる。日吉神社では、神職ら神威隊(しんいたい)が仏像・仏具・経典などを徹底的に破壊・焼却した。浄土真宗を中心とする仏教側の抗議を受けて、明治政府は四月一〇日に破壊行為を禁止する太政官布告を公布したものの、廃仏毀釈は収まらなかった。信濃の諏訪神社、京都の石清水(いわしみず)八幡宮、尾張の熱田(あつた)神社、筑前の筥崎宮(はこざきぐう)、遠江(とおとうみ)の秋葉山(あきばさん)、大和の金峯山(きんぷせん)、伯耆の大山(だいせん)、羽前の羽黒山(はぐろやま)、讃岐の金毘羅宮(こんぴらぐう)、下野の日光山などは、廃仏毀釈がとくに激しかったと言われている。
明治政府は、祭政一致(さいせいいっち)のために宗教行政機関の整備にも務めた。慶応四年一月に「神祇事務科」を設置し、二月には「神祇事務局」と改称している。同年閏四月の「政体ヲ定ム」(いわゆる「政体書」)公布により太政官制を設けた際には、「神祇官」を太政官内に設置した。こうして、国家が神社・神職を直接管理することとなったのである。
明治二年(一八六九)七月の「職員令」制定の際には、神祇官が太政官の上に列せられた。九月、神祇官内に「宣教使」が設置され、神道が全国民に布教されることとなった。その背景にはキリスト教対策という一面もあった。明治三年一月、国民に「惟神(かんながら)の道」を説く「大教宣布(たいきょうせんぷ)の詔(みことのり)」(表1-6-コラム-1)が出され、神道に基づく国民教化を神祇官が主導することとなった。さらに、明治四年五月の太政官布告第二三四号「伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ大小ノ神官社家ヲ改正補任セシム」および第二三五号「官社以下定額及神官職員規則ヲ定メ神官従来ノ叙爵ヲ止メ地方貫属支配ト為シ士民ノ内ヘ適宜編籍セシム」では、神職の世襲廃止と官吏化、神職職員制度などが定められ、神社国家管理制度=国家神道体制の確立が進められたのである。もっとも、太政官との連携不足などから、宣教活動は十分に機能したとは言い難い。
明治四年八月、神祇官から神祇省への改称を経て、明治五年三月、「近代日本で初めての本格的な宗教行政官庁」と言われる「教部省」が誕生した(阪本 一九九四)。教部省の設置により、祭祀は式部寮、教法(宗教)は教部省の管轄と棲み分けられ、神道国教化政策は、事実上頓挫となった。教部省は、宣教使を廃止し、翌四月、国民教化の担い手として神官・僧侶を教導職に任じた。さらに、敬神愛国・天理人道・皇室崇拝から成る「三条教則」を通達し、「教導職」がこれらを国民に説く、大教宣布運動を展開したのである。明治五年八月の「大教院」の設置も、一連の流れのなかに位置付けられる。大教院は、各府県に設けられた中教院、神社・寺院などの小教院を管理することが期待された。
しかし、教導職による国民教化政策は、狙いどおりには進展しなかった。その理由としては、そもそも三条教則の内容が僧侶に馴染みが薄かったことがある。また、教部省はすべての神官を教導職にすると通達していたが、明治七年末段階で教導職に補任された神官は約四三パーセント、僧侶は約二・六パーセントに過ぎなかった。資金不足もあった。とりわけ、仏教勢力の疲弊は著しく、大教院も資金不足に喘(あえ)いだ。さらに、木戸孝允や伊藤博文など長州閥の政治家、西本願寺の島地黙雷(しまじもくらい)などが信教の自由や政教分離の観点から大教院の神道化を批判したことも影響している。
結局、明治八年四月に大教院は解散となり、大教宣布運動は幕を下ろした。同時に、民衆教化という明治初期の宗教政策も挫折したのである。
明治一〇年一月、教部省も廃止され、その事務は内務省社寺局に引き継がれた。 (久保田哲)
表1-6-コラム-1 宣布大教詔(明治3年〈1870〉1月3日)
国立公文書館所蔵 請求番号:勅00001100 件名番号:022