そして、そのような地域の特徴が、港区域におけるキリスト教の伝播に影響を与えた。そもそも、明治六年(一八七三)二月二四日太政官布告第六八号「布告発令毎ニ三十月間便宜ノ地ニ掲示シ並ニ従来ノ高札ヲ取除カシム」により江戸幕府の高札(こうさつ)制度が廃止され、切支丹(きりしたん)高札も撤去されたものの、その時点ではキリスト教が正面から政府に認められたわけではなかった。キリスト教が政府による公認の地位を得るのは、明治三二年七月一七日内務省令第四一号の「宗教ノ宣布者及堂宇会堂説教所ノ類設立廃止等ノ場合届出ニ関スル件」によって、宗教行政の対象となるまで待たねばならない。また、日英通商航海条約に基づいて、明治三二年に内地雑居が認められるまでは、日本国内における外国人の行動は制限されていた。このため、在日の外国人のために礼拝を執り行うことと、キリスト教を伝道することを目的として明治初期に来日した宣教師たちは、自由に活動することが叶わなかったのである。
ただし、そのような状況においても、公使館に所属する者や政府に雇われた者、技術伝習のために民間人に雇われた者などは、居留地の外に住むことが許されていた。そこで、キリスト教の宣教師たちは使命を果たすべく、これらの身分を得ることによって居留地から出て、日本国内における行動の範囲を広げていった。このような背景のもと、港区域にもキリスト教が広まっていくこととなる。
まず、プロテスタントの活動からみてみよう。港区域に外国の公使館が多かったことは前述したとおりだが、公使館付の牧師となって日本での活動を開始した宣教師として、明治六年に来日したイギリス海外福音伝道会のアレクサンダー・クロフト・ショーが挙げられる。イギリス海外福音伝道会は、イギリス国教会の流れをくむ聖公会の宣教団体であるが、ショーはイギリス公使館付牧師となって日本での活動を開始し、当初は赤坂霊南坂にあった陽泉寺(現在の赤坂一丁目)で英語の礼拝を行った。また、福澤諭吉に請われ、慶應義塾の構内に住み、福澤の子どもたちの家庭教師や学生の指導を務めたのち、芝区芝栄町(現在の芝公園三丁目)に聖アンデレ教会を建てた。「公使館の教会」とも呼ばれ、東京に住むイギリス人に向けた英語による礼拝と、日本人のための日本語による礼拝を行っていたといわれる。
このように、日本人の協力を得つつ、教育を介し、キリスト教が港区域に伝わった例は、ほかにも見られる。新島襄(にいじまじょう)、中村正直(まさなお)と並んで「キリスト教界の三傑」とも呼ばれた津田仙(つだせん)(一八三七~一九〇八、図1-6-3-1)は、娘の梅子が在米中、世話になったアメリカ人からの紹介で知り合ったアメリカ・メソジスト監督教会の宣教師ジュリアス・ソーパーから明治八年に洗礼を受けた。もともとは幕府の通訳官として活動していたこともあり、津田は明治六年の万国博覧会派遣団としてウィーンに赴いたことをきっかけに、その際に学んだ西洋農業技術を日本に導入すべく、明治八年に麻布区麻布本村町(現在の南麻布三丁目)で「学農社」と「学農社農学校」を開いたが、そこでキリスト教の集会も催した。また、ソーパーは、津田を介して日本人との知縁を広げ、例えば、津田の友人であり、慶應義塾の初代塾長として知られる教育者の古川正雄夫妻にも洗礼を授けた。ソーパーが所属していたアメリカ・メソジスト監督教会は、一八世紀にイギリス国教会から誕生し、独立に至ったメソジスト派の一つである。明治六年に日本宣教部会が組織され、四名の宣教師たちが指定された任地を巡回するという計画的な方法で伝道が始められた。そのなかでも、東京巡回の担当者であったソーパーが最も早く成果をあげたといわれる理由には、津田の協力もあるといえるだろう。
そして、同じくアメリカ・メソジスト監督教会に所属していた婦人宣教師のドーラ・E・スクーンメーカーも、津田の援助を受けた人物である。スクーンメーカーは来日した明治七年に、現在の青山学院につながる女子小学校を麻布区麻布新堀町(現在の南麻布二丁目)に作った。そして、津田の私宅や廃寺となった薬師堂を経て、三田北寺町(現在の三田四丁目)に所在していた真言宗の寺院である大聖院の場所を借り、それに伴って「救世小学校」となった。そして、その名前を「海岸女学校」と改め、明治一〇年に築地居留地に移転したが、一連の経緯には津田の尽力があった。
一方、港区域におけるカトリック教会の設立はもう少し待たねばならない。そもそも、明治期の日本における伝道を主として担ったカトリックはパリ外国宣教会であった。パリ外国宣教会は、一七世紀にフランスで組織され、アジアへの伝道を担った宣教団体であるが、明治初期の日本においては、生活困窮者や幼年者への支援に注力しながら、巡回布教を行うスタイルが多かったといわれる。港区域においては、その巡回布教を目的とした教会が明治一五年に設けられるので、追って述べることとしたい。
図1-6-3-1 津田仙
青山学院資料センター所蔵