東洋英和学校は麻布区麻布東鳥居坂町(現在の六本木五丁目)にあった故駐仏特命全権公使鮫島尚信(さめじまなおのぶ)の邸宅跡地に、東洋英和女学校は同地のビール醸造場跡にそれぞれ開設された(図1-6-3-4)。当初、宣教師たちは、伝道を中心に据える学校を構想していたが、当局の認可を得るために小林たちが述べた意見が考慮された結果、いずれの学校も設置の申請書にはキリスト教の教育が明記されていない。もっとも、両校の設立者を小林としたうえで、東洋英和学校の校長はカックラン、東洋英和女学校の校長はカートメルとなったことからもわかるように、カナダ・メソジスト教会の信仰を基盤としていたことは疑うべくもないといえよう。実際に、東洋英和学校の講堂で麻布教会のクリスマスが執り行われたことや、「東洋英和女学校少女会」などの団体による麻布教会への寄付が見られること、東洋英和女学校の生徒たちが日曜日には麻布教会の礼拝に出席していたことも、両校と小林が牧師を務めていた麻布教会との結びつきを示している。
このように日本の実情と折り合いをつけながら、伝道と教育の在り方が模索されていったが、伝道と教育の関わりという点について、前述した慶應義塾に目を向けたい。福澤がショーに慶應義塾の学生に対する指導を依頼したことはすでに述べたが、ほかにも、イギリス海外福音伝道会系統の女性宣教団体レイディズ・アソウシエイションが明治八年に派遣した宣教師のアリス・エリナ・ホアを自邸に住まわせて、英語や裁縫などを教えさせた。さらに、明治一七年にイギリス海外福音伝道会の宣教師として来日したアーサー・ロイドは、福澤家の家庭教師を務めたのち、慶應義塾で英語を教えるかたわら、芝区三田四国町(現在の芝五丁目)に喜望教会を開き、伝道を行った。ロイドは一度、イギリスへ戻り、再来日してから、明治二六年に慶應義塾大学部で文学科の主任教師に就いた。なお、ロイドはのちに、アメリカ聖公会の宣教師としての認可を得るとともに、立教専修学校および立教英語専修学校長に任命される。
さらに、アメリカ・ユニテリアン協会から派遣されたアーサー・メイ・ナップが明治二〇年に来日し、福澤とのつながりを深めることとなる。もともとは、森有礼や吉田清成、金子堅太郎らの要請もあって、ナップの来日が実現したが、アメリカに留学していた福澤の長男と交流があったこともあり、福澤の支援を受け、ナップは芝白金三光町(現在の白金二丁目)に居住し、ユニテリアンの振興に際して福澤の協力を得ることとなった。それまでの批判的な態度を変え、西洋化が進む社会においては「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」と述べ(『時事新報』明治一七年六月六日、七日)、明治一七年以降はキリスト教への容認の姿勢を示すようになっていた福澤にとって、ユニテリアンとの協力は西洋の宗教を具体的に知るとともに、慶應義塾のさらなる充実につながる機会となった。福澤はナップに対して、慶應義塾の教員を斡旋するようにハーバード大学総長に依頼することを委任し、明治二二年にはアメリカ・ユニテリアン協会を通して、ウィリアム・シールズ・リスカム、ギャレット・ドロッパーズ、ジョン・ヘンリー・ウィグモアの三名が着任した。彼ら自身はユニテリアンではなかったが、キリスト教と教育事業が密接に展開していたことを看取できよう。
港区域におけるキリスト教と教育事業とのつながりを示す存在として、荏原郡白金村にあった旧三田(さんだ)藩主九鬼家の下屋敷跡(現在の白金台一丁目)に建てられ、明治二〇年に東京府から設立の認可を得た明治学院も重要である。その起源は文久三年(一八六三)にヘボン夫妻が横浜に開いたヘボン塾であるが、次のような流れを経て設立に至った。明治一〇年に日本基督一致教会が作られたことは前述したとおりだが、同年にその神学校として築地居留地に東京一致神学校が設けられた。それまでは宣教師たちの私塾というかたちで行われていた神学教育の内容を全般的に向上させるとともに、宣教師たちの負担を軽減するために、日本人の信徒に対する神学教育の実践が目指されたのである。その後、明治一九年には、居留地の外へ展開すべく、東京一致神学校と東京一致英和学校、英和予備校が合併し、その名称を明治学院とすることが決定されたが、東京一致英和学校は、明治一三年に築地居留地へ移転したことに伴ってヘボン塾から改称した築地大学校と、アメリカ改革教会につながりをもつ先志学校が合併した学校である。
以上のような経緯で成立した明治学院の初代総理として明治二二年に、アメリカ長老教会のジェームス・カーティス・ヘボンが就任し、明治二四年からは二代目総理を井深梶之助が務めた。当初の明治学院は普通部と神学部を擁(よう)し、神学部では日本人の教職者を養成することが目指される一方、普通部ではキリスト教主義のもとで高等普通教育を実施することとされた。学内に設けられた教会では、明治学院の日本人教師や宣教師、学生たちが集(つど)って礼拝が行われたことからも教育とキリスト教のつながりをうかがうことができよう。
さらに、カナダ・メソジスト教会のカートメルも認めていたように、キリスト教の伝道には女子教育も重要な役割を担っていた。来日した宣教師たちは、女子教育機関が少なかった日本の状況を知り、居留地内で女子教育に取り組んでいたが、そのような動きは次第に一般市域に広がっていく。港区域では、明治一七年に頌栄(しょうえい)学校や前述した東洋英和女学校、明治二〇年に普連土女学校、明治二一年には香蘭女学校が設立される。
頌栄学校は、芝区二本榎で開校されたのち、明治一九年に芝区芝白金猿(しばしろかねさる)町(現在の白金台二丁目)に移転した。新校舎での開校式には福澤諭吉も招かれていた。のちに芝区会議員や芝区学務委員長に就く岡見清致(きよむね)が初代校長となり、外国人教師としては、アメリカ長老教会の宣教師アニー・ブレイス・ウェストらが教壇に立った。
普連土女学校の母体となったフレンド派は、一七世紀のイギリスで誕生した。キリスト友会や、クエーカーという名でも知られ、霊的な審理探求を掲げて「内なる光」を重んじ、信仰を実践する。日本への伝道は、アメリカに留学していた新渡戸稲造と内村鑑三が、フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会に女子学校の設立を求め、弾みがつき、明治一八年の宣教師ジョセフ・コサンド(一八五一~一九三二)および妻サラ・コサンドの来日が実現した。なお、新渡戸自身もフレンド派のもとでキリスト教徒としての道を歩み始め、のちに、フレンド派のメアリー・エルキントンと結婚する。
妻と共に横浜に上陸したジョセフ・コサンドは、津田仙との知遇を得て、明治一九年に学農社の教師として政府に申請したうえで、麻布区麻布新堀町にあった津田の家に身を寄せることとなった。その翌年には、麻布区麻布本村町の津田の邸内に転居し、そこで普連土女学校を開校した。校名を決める際には、津田が知恵を貸したといわれる。なお、学農社の教壇にたって英語を教えたのち、官途に就いた海部忠蔵が初代校長となったが、その背景にも、津田が海部とコサンドを引き合わせたという所縁があった。
明治二一年には芝区三田功運(みたこううん)町(現在の三田四丁目)に土地を購入し、翌年に宣教師の住宅、校舎、寄宿舎が落成された。さらに、コサンド夫妻は明治二三年に芝普連土教会も開いた。同年には聖坂友会伝道所と名称が変更されるが、さらに大正四年(一九一五)には聖坂月会に改められる。
香蘭女学校は、イギリス国教会における日本の宣教主教として明治一九年(一八八六)に日本へ来たエドワード・ビカステスが創立した。島津忠亮子爵家から借りた麻布区麻布永坂町(現在の麻布永坂町)で開校に至り、今井寿道が初代校長に就任したが、設立に際しては、福澤とその門下生たちも協力したといわれる。もともと、今井はイギリス海外福音伝道会のショーのもとで学び、キリスト教の道を歩み始めた。明治二〇年には、聖公会系の外国宣教団体であったアメリカ聖公会、イギリス海外福音伝道会などによる協働を背景として、日本人による聖公会の教会である日本聖公会が成立したが、その組織化にビカステスが大きく貢献し、成立後の運営には今井も携わっていた。そして、明治二一年には香蘭女学校の設立が続くように、港区域で縁付いた人とのつながりが、キリスト教の伝道と教育事業に作用していたといえるであろう。
図1-6-3-4 創業期の東洋英和女学校校舎と教職員生徒(明治20年〈1887〉)
東洋英和女学院史料室所蔵