慈善事業と医療活動

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 その一方、慈善事業を介したキリスト教の伝播も次第に港区域でみられるようになっていく。明治二四年(一八九一)の濃尾地震をきっかけに、香蘭女学校の敷地内に聖慈堂病院と聖ヒルダ孤女院が設けられた。また、聖アンデレ教会のキャロライン・カルクス、宮内省式部次長の三宮義胤(さんのみやよしたか)夫人である八重野、ショー夫妻により、義援金やバザーの実施によって得た資金をもとに、明治二四年頃、麻布孤児院が設立されたといわれている。また、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社により、永坂孤女院が運営された。もともとは、麻布区麻布一本松で運営されていた孤児院が移転を重ね、明治四一年に麻布区麻布永坂町に至ったが、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社は、東洋英和女学校の母体でもあり、収容された女児が東洋英和女学校に通う例も少なくなかったことから、実質的には東洋英和女学校の附属孤児院であったともいわれる。
 また、医療活動も行われる。アメリカから来日した医師のウィリス・ノートン・ホイットニーは、勝海舟から赤坂区赤坂氷川町(現在の赤坂六丁目)の土地を購入し、明治二一年にキリスト教精神の慈善病院として赤坂病院を開設した。そこでは、礼拝や祈禱会も定期的に実施したが、いずれの教団にも属さず、活動を行っていたといわれる。なお、ホイットニーがアメリカ領事館で通訳官を務めていたころ、その妹が横浜に着いたばかりのコサンド夫妻を世話したが、ホイットニーの妻の兄がもともとフレンド派の信徒であったという縁もあり、ホイットニー自身も日本のフレンド派や普連土女学校にも協力したとされる。