東京市中の警備と府兵

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 慶応四年(一八六八)一月三日から始まった鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、江戸に戻った徳川慶喜が新政府への恭順姿勢を明確にしていく過程で、幕府は徳川宗家の家政機関へと転換された。これに伴い、老中などの役職から譜代大名が外れたことで諸藩の藩兵も国許に引き揚げていったため、江戸市中の警備には、江戸時代以来の町奉行所とともに幕府の歩兵各隊などがあたることになった。
 同年四月一一日の江戸開城後、総督府は江戸町奉行所や大久保一翁、勝海舟らの恭順派旧幕臣に江戸の治安維持を命じたが、五月一日には総督府が直接、治安維持にあたることとしている。その際に、町奉行所の組織・人員を丸抱えとして市政裁判所を設置し、その業務もまた継承させたが、維新の混乱期にあって、三〇名程度の三廻り(定廻り・臨時廻り・隠密廻りからなる市中警備などを司った職掌)による市中巡回では治安の維持はきわめて困難であった。
 七月一七日に江戸を東京とする詔勅が発せられて東京府が設置されると、尾張藩や福岡藩、佐賀藩などの八藩に取り締まりが命ぜられ、市中取締隊が設置された。これは、のちに三〇藩に拡大され、市中を四七区に区分して約二五〇〇名が警備にあたった(土肥 一九九四)。
 ところが明治二年(一八六九)一月に市中取締隊を解散とし、軍務官(陸軍省・海軍省の前身となる軍事防衛を司る行政機関)が諸藩兵を管轄することとなった。このため、警備にあたる諸藩兵への指揮・命令や人事は諸藩がそれぞれに有するかたちとなり、警備に支障が生じたため、一一月に東京府兵を設置することに改めた。府兵は、諸藩兵から選抜した兵力を兵部省(明治二年七月の官制改革で軍務官に代わって設置)が東京府に派遣し、その指揮・命令や人事は東京府が所管することとされた。また、府兵の設置とともに市中の四七区を六区に再編成して警備にあたったが、その規模は約二五〇〇名と、市中取締隊と同規模であった(土肥 一九九四)。
 なお、明治三年五月に町奉行所の三廻りを継承した捕亡方(ほぼうかた)が廃止されたことで、市中の治安維持は府兵のみが担当することになる。当時は、軍と警察の機能が必ずしも明確に区分されておらず、府兵は警察としての業務もまた担っていた。警察機能の分離は、明治四年一〇月の邏卒(らそつ)(巡査の前身で明治初期の警察官)の設置を待たねばならない。