東京鎮台の設置

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 廃藩置県後の明治四年(一八七一)八月二〇日に、政府は東北(仙台)・東京・大阪・鎮西(熊本)に四つの鎮台を設置した。このときに政府が常備兵力として規定したのは、東北鎮台に歩兵一大隊、東京鎮台に歩兵一〇大隊、大阪鎮台に歩兵五大隊、鎮西鎮台に歩兵二大隊をそれぞれ直轄兵力とし、鎮台内の各分営にそれぞれ歩兵二小隊から一大隊を配置するというものであった。鎮台の設置により、政府の常備兵力は士族からの志願兵で構成された御親兵と鎮台兵に整理され、これ以外の諸藩兵はすべて解兵された。すなわち、御親兵と鎮台の設置によって実質的に国軍が創設されたとみることができ、これに続く徴兵制度の開始によって日本における近代陸軍は確立されたといえよう。
 なお、明治五年の鎮西鎮台の熊本鎮台への改称と、明治六年一月の名古屋鎮台および広島鎮台の設置によって六鎮台から成る体制が確立された。また、明治六年七月の鎮台条例改定では、日本全国を七つの軍管に区分し、北海道に相当する第七軍管以外には六鎮台をそれぞれ充てることとしており、各軍管をさらに二ないし三の師管に区分し、師管に二ないし三の営所を置いて部隊を駐屯させることを定めている。鎮台条例改定制定の段階では、全国に四〇の営所と一四の師管が設置され、合計五四か所の駐屯地を設けることで全国の防衛を網羅している。なお、明治六年一月の「六管鎮台表」においては、鎮台の総兵力を平時で三万一六八〇名、戦時で四万六三五〇名と定めていたが、徴兵が開始された明治六年一月時点では、士族の志願兵である壮兵が約八三〇〇名を占めており、残る約二万三〇〇〇名を徴兵によって充足する予定であったことがうかがえる。
 鎮台条例改定では、鎮台に歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重(しちょう)兵の各兵科を置くなど総合的な戦力編制が企図されている。なお、鎮台が対象としている仮想敵は主として「兵革」や「草賊」、すなわち国内における反乱軍であり、緊急の際には府県からの要請に応じて鎮台の判断で出兵・鎮圧する裁量が認められている。一方、外国からの攻撃に対しては、政府の命が下るまでは固く交戦を禁じ、緊急の際も防衛戦のみを認めるなど、対外戦闘に対しては極めて消極的な方針を示している。いずれにしても、鎮台は防衛を主任務としており、外部に対する攻撃はほとんど想定されていないといえる。
 東京鎮台が管轄する第一軍管には、第一師管(東京)、第二師管(佐倉)、第三師管(新潟)の三師管が設置され、第一師管は小田原・静岡・甲府、第二師管は木更津・水戸・宇都宮、第三師管は高田・高崎のそれぞれに営所を設置した。師管には連隊を設置することが定められたことにより、陸軍における部隊編制の基本は大隊から連隊へと移ることになる。  (門松秀樹)