近代陸海軍の創設にあたり、「徴兵令」に基づく徴兵の実施はきわめて重要な柱であった。そもそも陸軍の建設をめぐっては、大村益次郎や山縣有朋などを中心とする徴兵による陸軍の創設と、西郷隆盛や桐野利秋(としあき)などを中心とする士族の志願兵である壮兵を中核とする陸軍の創設の二つの方針が対立していた。明治二年(一八六九)の大村の暗殺後は山縣が中心となって徴兵制の確立を進めていたが、西郷が徴兵の必要性を認めて山縣を支援し、桐野らの反対派を抑えたことで、「国民皆兵」の原則に基づく徴兵による陸軍の建設が進められた。
明治五年一一月二八日に布告された徴兵告諭に基づき、翌六年一月一〇日に太政官布告「徴兵令」が施行された。なお、徴兵令の制定に際しては、兵部省および陸軍省(明治五年二月に兵部省が陸軍省と海軍省に分割)はフランスにおける徴兵に関わる人口統計資料の収集や分析を進め、フランスの徴兵検査対象者数や兵役免除対象者数、徴兵検査合格者数、抽選名簿登載者数、現役徴集者数などから、日本における徴兵検査の動向予測などを行っており、徴兵制がフランスに範を採ったものであったことがうかがえる。
なお、徴兵令制定時における徴兵検査は以下のような段階で進められた。まず、徴兵検査前事務として、府県が作成して陸軍省に提出した「徴兵連名簿」と「免役連名簿」を確認して徴兵検査の対象者数や歩・騎・砲・工・輜重などの兵種ごとに補充すべき人数などの確認が行われる。次に徴兵検査が実施されるが、検査は陸軍省が事前に通達した検査日に基づき、区町村(区はのちに市となる)ごとに一日当たりの検査人数を定め、実施する。検査は府県に一か所設置された徴兵署で実施されるため、区・戸長が対象者を徴兵署まで引率することになる。また、徴兵署が遠隔地の対象者については、陸軍の担当者が巡回して検査を行う。この検査の結果、現役に適すると判断された者が甲種および乙種となり、現役には適さないが後述する国民兵役に適すると判断された者が丙種、兵役に適さないと判断された者が丁種、病中・病後などで検査できなかった者が戊種とされた。その次は、甲種および乙種の合格者を対象とした抽選が行われる。徴兵検査に合格した者が全員兵士として入営するのではなく、常備兵役、すなわち平時の体制における欠員分が補充されることになるため、入営する者を抽選で選ぶのである。欠員の補充として入営する者が現役、現役の半分の人数を、現役に欠員が出た場合の補充要員として補充兵役とし、それ以外は非常時に召集の対象となる国民兵役に編入された。そして、抽選の結果、現役に当選した者が兵士として各地の連隊に入営するが、その際には、区町村ごとに区・戸長が最寄りの兵営まで引率していくこととなる(内藤編 一八八〇)。
このように、検査自体は陸軍が管轄するが、住民の状況把握や検査にかかる事務手続きなど、自治体である区町村も徴兵に関わっており、名簿の作成や令状の送付などを担当する兵事課や兵事掛が自治体には設置されていた。