歩兵第一連隊

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 「歩一」の通称で知られる歩兵第一連隊は、その番号が示すとおり、日本で最初に設置された連隊の一つである。旧防衛庁庁舎が置かれていた赤坂檜町(現在の赤坂九丁目)を駐屯地としていたため(図1-7-2-1)、港区域とは関係の深い部隊である。歩兵第一連隊と港区とのつながりは、単に港区域に駐屯していた部隊であることに留まらない。徴兵制の実施後は、基本的には居住地で検査が実施され、検査に合格して徴兵された人々は、居住地を管轄する連隊に入営する。歩兵連隊は、いわば地元出身者による「郷土連隊」としての性質を有しており、港区域から徴兵された人々は歩兵第一連隊に配属されているのである(のちには歩兵第三連隊も配属先となる)。以下に歩兵第一連隊が檜町に駐屯地を定めるまでの経緯を『歩兵第一聯隊歴史』に基づき略述する。
 歩兵第一連隊の前身は、明治四年(一八七一)八月に大阪で編制された大阪鎮台の歩兵第五番大隊であった。明治五年三月に同大隊が東京鎮台の管轄に移管され、明治六年五月に鎮台条例に基づいて歩兵第一連隊が編制されると、歩兵第一連隊第一大隊となった。さらに、徴兵令に基づく徴兵検査の実施に伴って、同年、第二大隊が編制され、さらに翌七年四月には第三大隊が編制された。明治七年一二月に改正された「歩兵一聯隊編成表」では、一個連隊を三個大隊によって編制することが定められていることから、明治七年四月の第三大隊編制によって歩兵第一連隊は編制を完了したといえる。
 なお、この段階における各大隊の兵営は、第一大隊が芝愛宕下の伊予松山藩上屋敷跡(現在の東京慈恵会医科大学、西新橋三丁目近辺)、第二大隊および第三大隊が赤坂檜町の長州藩下屋敷跡(現在の東京ミッドタウン、赤坂九丁目近辺)にそれぞれ置かれた。
 明治七年から九年にかけて、各大隊は兵営の移転を繰り返した。明治七年八月から一一月にかけて第二・第三大隊が熊本鎮台に転出し、熊本から帰還した第二大隊は芝巴町天徳寺(虎ノ門三丁目)と青松寺(愛宕二丁目)を仮兵営に、第三大隊は呉服橋門内の仮兵営(東京都千代田区大手町二丁目)にそれぞれ駐屯した。明治八年三月になると、第一大隊と第二大隊が赤坂檜町の兵営に駐屯し、第三大隊が愛宕下の第一大隊の兵営に駐屯する。この後、明治九年一月に第一大隊と第三大隊が交代して、明治七年四月の配置に戻り、同年一〇月には赤坂檜町に連隊本部が設置された。その後、第二大隊の一部が呉服橋門内の仮兵営に移るなどするが、明治一七年五月にすべての大隊が赤坂檜町の兵営に駐屯したことで、昭和まで続く「歩一」の姿へと落ち着いていくのである。
 

図1-7-2-1 歩兵第一連隊の営門・営庭(写真は大正期)
帝国聯隊史刊行会編『歩兵第一聯隊史』第四版(1923) 防衛研究所戦史研究センター所蔵