西南戦争と第一連隊

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 明治七年(一八七四)に編制を完了した歩兵第一連隊も西南戦争に動員された。以下に、歩兵第一連隊の動向を、『歩兵第一聯隊歴史』および『歩兵第一聯隊史』に基づき略述する(図1-7-3-1)。西南戦争の勃発に先立ち、有栖川宮および山縣が勅使として鹿児島に派遣されることとなり、近衛連隊および歩兵第一連隊は勅使の護衛を命ぜられた。連隊長の長谷川好道が自ら第三大隊を率いて明治一〇年二月一四日に兵営を出発したが、西郷挙兵の報を受けて政府は一九日に征討軍の派遣を決定し、二一日には本営を大阪に定め、勅使護衛兵を征討軍として編制することとした。
 第三大隊は野津鎮雄(しずお)を司令官とする征討第一旅団に編制されて二二日には博多に上陸し、二五日には高瀬において西郷軍との戦闘に加わった。
 一方、第一大隊は三月一〇日に、第二大隊は三月一八日にそれぞれ兵営を出発し、第一大隊は第三大隊と同様に征討第一旅団に編制され、第二大隊は山田顕義(あきよし)を司令官とする別働第二旅団へと編制された。
 先発した第三大隊は、高瀬から田原坂(たばるざか)にかけての激戦を戦うことになった。二月二五日から二七日にかけての高瀬をめぐる攻防では、桐野利秋・篠原国幹率いる西郷軍の主力との衝突となり、第三大隊の中隊長に死傷者が続出するほどの苦戦を強いられたが、数に勝った政府軍は勝利を収めた。なお、この戦闘で西郷の弟である西郷小兵衛が戦死している。
 続く田原坂をめぐる戦闘では、第三大隊は吉次(きちじ)の攻略戦に参加したが、西郷軍の反撃によって吉次の攻略を断念し、以後は田原坂の攻略戦に参加する。西郷軍の抜刀突撃などによりたびたび損害を受けたが、三月二〇日に遂に田原坂を占領することに成功した。政府軍全体では、田原坂の攻略戦で約三〇〇〇名の死傷者を出すほどの激戦であった。
 西郷軍が守勢に転じたことで、政府軍は植木方面の攻略を目指し、三月一七日に高瀬に到着した第一大隊も戦闘に加わった。三月二一日から展開された戦闘では、要衝である植木と木留(きとめ)を政府軍は数回にわたって攻撃し、四月二日に木留の占領に成功する。さらに萩迫(おぎさこ)・辺田野(へたの)方面の攻略を目指した政府軍はここでも西郷軍との激戦となった。一五日に西郷軍が撤退に転じたことで、政府軍は追撃に移るが、萩迫・辺田野の戦闘で、第一・第三大隊は、中隊長二名の戦死を含む多数の死傷者を出した。
 一方、第二大隊の属する別働第二旅団は熊本城救援のために三月二五日に日奈久(ひなぐ)に上陸して熊本城を包囲する西郷軍の背後を衝いた。別働第二旅団は、八代(やつしろ)方面から熊本城を目指して、小川、松橋(まつばせ)を攻略して北上し、四月一二日には御船に到達した。翌一三日には別働第二旅団の山川浩が熊本城との連絡に成功し、一五日には熊本正面の戦線で戦っていた第一大隊が熊本への入城を果たしている。
 熊本城救援後、第一・第三大隊は大津の攻略戦に参加し、その後、第三大隊は川村純義を総司令官とする鹿児島派遣軍に加わり、六月二四日の紫原(むらさきばる)の戦闘において西郷軍との激戦に参加している。
 その後、各大隊は延岡方面での戦闘に参加し、第二大隊は長尾山で西郷軍の陣地を攻略している。政府軍は、延岡で破れた西郷を可愛岳(えのだけ)に包囲したが、八月一五日に西郷軍の夜陰に紛れての反撃を受け、包囲を突破されている。この際に、西南戦争劈頭(へきとう)から活躍していた第三大隊長であった迫田鉄五郎が戦死している。
 九月一日に可愛岳から鹿児島に帰還した西郷は城山に籠城し、政府軍はこれを包囲し、二四日に総攻撃を行った。この際、第一大隊は攻撃部隊に、第二・第三大隊は包囲部隊に加わっている。同日の西郷の自刃によって西南戦争は終結するが、二七日に有栖川宮が鹿児島に入城して征討軍の編制解除を命じた。これによって翌二八日に各大隊は九州を発ち、一〇月一七日に第二大隊が、二八日に第一・第三大隊がそれぞれ帰営している。  (門松秀樹)
 

図1-7-3-1 西南戦役略図

注)略図中、▲は政府軍・西郷軍が陣地を設営した場所、実線は河川、点線は主要道路を示している。
帝国聯隊史刊行会編『歩兵第一聯隊史』第四版(1923) 防衛研究所戦史研究センター所蔵