陸軍大学校の創設

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 近代陸海軍の建設にあたって、その人材の養成は欠くことのできない問題であった。士官の養成機関としては、慶応四年(一八六八)八月に京都に兵学校が設置され、これが明治二年(一八六九)九月に大阪に移転して兵学寮となり、明治四年には陸軍兵学寮と海軍兵学寮に分離された。この陸軍兵学寮が東京和田倉門内に移転し、明治七年の陸軍士官学校条例によって市ヶ谷に開校される陸軍士官学校へと続いていく。
 一方の海軍も明治二年に築地に海軍操練所を設置して、士官の養成を始めた。明治三年一一月にこれを海軍兵学寮と改称し、これが明治九年八月に海軍兵学校に改められた。海軍兵学校といえば広島県の江田島という印象が強いが、江田島への移転は明治二一年となる。
 軍の幹部であり、部隊指揮官となる士官の養成機関に続いて、高級幹部・参謀の養成機関として設置されたのが陸軍大学校および海軍大学校である(図1-7-4-1)。
 陸軍大学校は明治一六年四月に創設され、当初は参謀本部内に置かれていたが、翌年には和田倉門内に移転し、さらに明治二三年に青山へと移転した(現在の港区立青山中学校、北青山一丁目)。ちなみに、海軍大学校は明治二一年に、築地の海軍兵学校跡に設置されている。
 なお、このほかに港区域に設置された軍の教育機関としては、海軍経理学校の前身である海軍会計学舎が明治七年に増上寺境内である芝山内天神谷(現在の芝公園二丁目近辺)に設置されているが、明治二一年に築地に移転している。
 創設当初の陸軍大学校はフランスを模範とする教育が行われていたが、桂太郎らによって陸軍のモデル国がドイツに変更されたことにより、ドイツよりクレメンス・メッケルを教官に迎え、ドイツ式の教育が行われた。陸軍大学校の学生は、士官学校を卒業して部隊勤務をしている少尉・中尉のなかから、所属長(連隊長である場合が多い)の推薦を受けた者が受験資格を与えられ、選抜試験を受けて入学した。三年間の修学期間を終えて卒業すると、その人事は参謀本部総務部庶務課が直接所管し、昇進も早められて参謀本部や陸軍省などの要職へのエリートコースに乗せられた。このため、陸軍大学校卒業生は、その卒業徽章のかたちから「天保銭組」と呼ばれ、そのほかの大多数の士官の「無天組」とは異なる特別な処遇を受けた。
 

図1-7-4-1 陸軍大学校(明治40年〈1907〉)

田山録弥『東京写真帖』(日本葉書会、1907)から転載
協力:博文館新社