第一師団の編制

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 明治一八年(一八八五)に太政官達第三三号「鎮台条例」が改正され、陸軍部隊の拡張が計画された。この改正では、各鎮台に師管を二つずつ置くことと、師管ごとに二つの連隊を置き、二個連隊で旅団を編制すること、戦時には鎮台の二個旅団をもって師団を編制し、鎮台司令官が師団長を務めることなどが規定された。以前は鎮台によって配備される連隊の数に違いが生じていたが、この改正によって各鎮台は一律に四個連隊を有することとなり、常備兵力も一四個連隊から二四個連隊へと大幅な増加を目指した。また、西南戦争の動員状況でも明らかなとおり、従来は戦時に旅団が編制され、大隊を基本単位として連隊の部隊の再編制が行われていたが、二個連隊を基本とする旅団を常設とすることで、陸軍部隊の基本単位を完全に連隊に移行することが企図されたといえる。
 明治二一年五月、鎮台条例の廃止と師団司令部条例の制定により、鎮台が廃止されて師団へと改編された。それぞれ、東京鎮台が第一師団、仙台鎮台が第二師団、名古屋鎮台が第三師団、大阪鎮台が第四師団、広島鎮台が第五師団、熊本鎮台が第六師団となり、近衛兵も近衛師団となった。師団の常設化は、諸兵科の統合的運用により、独立して作戦遂行が可能な戦略的規模の部隊を整備したことを意味する。歩兵や砲兵、騎兵などの直接的戦闘を担当する兵科だけでなく、工兵や輜重兵(しちょうへい)を有することで独自の設営能力や補給能力を有し、さらに師団司令部に参謀部や軍医部、獣医部、法務部などの補佐機能を有する部局を設置したことで、根拠地を離れて外地で活動することが可能になったということである。これは、防衛を主体とする鎮台制から師団制への転換により、日本陸軍が外地への侵攻能力を獲得したと考えることもできよう。
 ちなみに、一個師団を二個旅団、すなわち四個歩兵連隊を中心として編制する考え方を四単位制と呼び、日本陸軍はこの方針を基本としていたが、日中戦争期以降は、戦略的単位となり得る師団の数を大幅に増やす必要が生じたため、一個師団が三個歩兵連隊を中心に編制され、旅団を師団に設置しない三単位制が中心となった。
 なお、師団制への転換により港区域内には、新たに第一師団司令部が青山南町一丁目(現在の六本木七丁目近辺)に、歩兵第一旅団司令部が麻布三河台町(現在の六本木四丁目)に、麻布連隊区司令部が第一師団司令部内に、近衛歩兵第二旅団司令部が赤坂一ツ木町(現在の赤坂五丁目)にそれぞれ設置された。さらに、明治三五年には佐倉(現在の千葉県佐倉市)から歩兵第二旅団司令部が第一師団司令部内に移転するなど、赤坂区から麻布区にかけては陸軍の施設が集中し、軍都の様相を呈していった。  (門松秀樹)