第一項 市区改正事業の展開

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 本節では、明治二〇年代から大正初期にかけて進行した東京市区改正事業を中心に、港区域が、かつての江戸郊外から東京都心の一角へと変貌する過程について述べる。
 江戸時代の初期、江戸幕府は土地利用の区分を明確にした江戸城下町の整備を行った。江戸と全国を結ぶ街道整備にあわせて、江戸城周辺の台地上の四谷、市谷、本郷などの地域に軍事的役割を担う武家屋敷、寺社を配置する一方、台地の際に造られた坂を境目として、下町には商工業地域としての町家を配した。この段階で港区域には、大山街道沿いの赤坂・青山に大規模な大名屋敷が集められる一方、海沿いの芝では東海道に沿って線状に町屋が形成された。
 その後、江戸の発展と人口流入により市街地が拡大する過程で、土地利用は複雑化する。江戸城周辺の中心市街地であった神田、日本橋、京橋、八丁堀などの地域が狭隘(きょうあい)となり、各種の施設が江戸郊外に移された。明暦三年(一六五七)の明暦の大火後には、大名屋敷や寺社地が江戸郊外の浅草、本郷、小石川、四谷などに移され、また旗本・御家人屋敷や、芝居町、花街、遊郭など娯楽施設も、江戸城から離れた地域に移された。その代表例が人形町から郊外の浅草への移転を機に、幕府公認の遊郭とされた吉原である。
 このような市街地拡大により、郊外の農村地域と江戸の市街地(御府内)の境界は次第に漠然となったが、無計画、無秩序に拡大を続ける市街地の範囲について、江戸幕府は幕末まで明確な意識をもたなかった。その結果、城壁で区切られた欧米の都市とは異なり、市中の生活困窮者や地方農村からの流入人口が集中する「場末」の町が郊外の農村地域に食い込んで形成されるなど、江戸内外の土地利用区分は複雑になり、武家地・寺社地に町屋が混在するようになった。現在の港区に相当する区域でも、江戸城から離れた地域への市街地拡大が進行した。東海道沿いの芝や高輪に八丁堀の寺町から寺社地が移され、島津家など有力外様大名の下屋敷などが集められた。また、渋谷・世田谷方面の農村地帯と大山街道で接続していた赤坂や青山、また麻布や白金の農村地域にも武家地・寺社地が増えた。それらの隙間には町屋が増加して市街地が拡大し、岡場所が赤坂や品川に形成された。
 港区域の地形的特徴は、武蔵野台地に属する複数の台地と、海沿いや古川水系など川沿いに入り組んだ低地が混在する点であるが、それは農村に市街地が、武家地や寺社地に町人地が入り組む複雑な土地利用と、武蔵野台地方面での複雑な街路網の形成をもたらした。このような状況は、明治維新後の港区域における武家地・寺社地の官有地、軍用地などへの転用、また明治二〇年代以降の東京市区改正事業における道路、市街電車整備に大きな影響を与えることとなる。
 幕末から明治維新期にかけて、江戸の武家地の多くは江戸幕府消滅に伴う武士層などの流出で荒廃、遊休地化した。ペリー来航を契機に参勤交代制が緩和され江戸の大名屋敷は規模を縮小していたが、さらに維新後は大名が複数所有していた大名屋敷が一か所に制限された。また旗本・御家人など旧幕臣の屋敷地では、早期に朝廷に帰順し新政府で官吏登用された者などの屋敷は維持されたが、徳川慶喜に従い静岡に移った者などの屋敷は主を失い荒廃した。港区域内でも、幕府に没収された桜田・麻布の長州藩邸、焼き討ちにあった芝の薩摩藩邸、旗本・御家人屋敷が集中していた麻布鳥居坂など、旧武家地各地での荒廃がみられた(港区史近世上 二章一節八項参照)。
 明治新政府はこれらの武家地・寺社地の多くを収公し、官用地や軍用地に、また皇族、華族の邸宅などに転用した。武家地の大名屋敷は、外部の目を遮断する外囲いでもある表長屋など、小規模な城郭としての構造を持ち、大きく手を加えずに兵営や官庁への転用が容易であり、明治初期の段階では屋敷地の土地形状や地割が維持されるケースが多かった。また、麻布台地に入り組んだ古川沿いの谷などの低地に広がっていた江戸時代からの町人地では、居住者に大きな変化がなく土地利用に著しい変化はなかった。
 明治一〇年代に入ると、江戸以来の無秩序な市街地拡大で不明確となっていた都心部の範囲を確定し、その区域内での「市区改正」実施による大火、伝染病の克服が模索された。明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法などからなる三新法により従来の大区・小区制が廃止され、東京府は新たに一五区と六郡に区画された。東京府一五区の範囲は、幕末期の江戸の区域である御府内とほぼ一致していた。東京中心部の四区(麴町、神田、日本橋、京橋の各区)を、周辺部一一区(現在の港区にあたる芝、麻布、赤坂区のほかは、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の各区)が取り巻いており、一五区以外の地域には六郡(荏原、東多摩、南豊島、北豊島、南足立、南葛飾)が置かれた。
 大区・小区制では従来の慣習や地域性を無視した機械的、直線的な境界が定められるなど地域住民の不満があったため、東京一五区については旧江戸城の城門名などを念頭に区名が決定されるなど地域の歴史や特性が考慮されていた。港区域は、東海道が江戸市街に入る芝口門(現在の新橋)の外側の湾岸部が芝区とされた。赤坂門外(弁慶堀)の山の手に広がり大山街道が通る一帯は、赤坂区とされた。一方、麻布区については中世以来の地名が区名に採用された。この三区の大部分は江戸の郊外であったが、都心の麴町区、京橋区に隣接する江戸城南西の後背地として、東京都心の中枢機能を支える共通項を持つことになる。
 明治一〇年代の東京の課題は、江戸時代から相変わらず多発する大火であった。明治五年の銀座大火後の復興を図る銀座煉瓦街計画を経て、明治一〇年代に入っても日本橋、神田など都心での大火は多発し、防火に目標を絞り、都心部に実施対象を絞った都市改造計画が立案される。明治一一年、楠本正隆東京府知事は都市改造のため東京市域を再検討して「東京府下区画改正案」を作成した。これは江戸末期に設定された江戸の範囲を示す御府内=旧朱引内を「郭内」とし、さらにこれを近区と遠区に二分しようというものであった。近区は都市改造を優先実施すべき都心部とされ、旧江戸城三六門外にあっても市街化していた北芝、外神田、湯島、南浅草が近区四区とされた。その一方で南芝、麻布、赤坂は遠区に配されており、港区域の大部分はこの時点では郊外と位置付けられていた。
 この楠本府知事の区画改正案は実現しなかったが、明治初期の東京の人口減少を背景に、市街地を都心部に限定すべく東京府は「線引き」を模索する。明治一二年に楠本の後任となった松田道之府知事は、東京改造を行う「中央市区」を画定するため、明治一三年に東京府会に「東京中央市区画定之問題」を諮問した。ここでは中央市区たる「内町」の範囲はおおよそ江戸の下町に限定・縮小された。その南限は新橋あるいは金杉川、また東京築港計画の動向によっては芝・田町までの拡張が想定され、港区域のうち東海道沿いの沿岸部が中央市区に含まれていた。内町では、防火のための建築制限を目的とした明治一四年の東京防火令により、主要道路沿いの建築物不燃化が進められた。
 松田府知事の病死後、明治一五年に芳川顕正(あきまさ)が工部少輔から内務少輔兼東京府知事に転じた。工部省出身で運輸・交通体系整備を重視した芳川府知事は、明治一七年に東京市区(市街の区画)での都市改造を目指す「市区改正計画案」を政府に示した。この芳川案は、東京の市街地を江戸より一回り小さく設定し、旧江戸城=皇居を中心とし、市街地の外縁部を芝の増上寺、上野の寛永寺、浅草寺として、このエリア内での道路整備に主眼を置いていた。
 欧米諸国の都市とは異なり、江戸時代の日本の街道や道路は馬車などの車両通行を前提とせず造られており、江戸市中の大通りは、明暦大火後の復興で一〇間幅(約一八メートル)に改められて以来、約二五〇年の間拡幅されていなかった。この既存道路を系統化して拡幅、整備し、幹線道路上に馬車鉄道を導入、さらに橋梁や水路など、水陸両面での交通インフラ整備を目指した芳川の案は、その後省庁間調整のための市区改正審査会での審議により東京築港や、旧江戸城周辺の丸の内・大手町の商業地化を含む総合的な計画に一時拡大する。しかし、事業財源に想定した入府税導入は実現せず、また欧米列強との不平等条約改正を目指す井上馨外務大臣が総裁を務める内閣臨時建築局の欧化主義的な首都改造計画との競合により、東京市区改正事業は一時停滞した。
 条約改正交渉の行き詰まりで井上外務大臣が失脚した後、内務省の主導により明治二一年東京市区改正条例が公布され、市区改正委員会での審議を経て、明治二二年に東京市区改正計画として決定、公示された(藤森 二〇〇四および御厨 二〇一七)。この東京市区改正計画は、明治二二年四月の市制施行で成立した東京市一五区の区域において、道路、橋梁、市街鉄道(路面電車)などの陸上交通、河川・外濠の整理による水運整備、市場や屠場などの流通施設、公園、火葬場、墓地など、総合的な都市施設整備を図る内容であった。なおその事業途中で、一連の審議過程で市区改正計画から外された上下水道整備、東京築港が追加された。
 明治から大正初頭の約三〇年間にわたる東京市区改正事業の展開は、①上水道整備を中心とした時期(明治二二~三二年)、②道路、橋梁など交通施設整備と新設計への方針転換(明治三三~四三年)、③明治末期の下水道整備の三期に区分される(石田 二〇〇四)。前述のように、明治前期に大火や伝染病対策が急務となったため先行実施された上水道整備は、近代的な改良水道への転換のため、浄水場や給水場の設置、加圧配水のための鉄管導入が行われた。しかし鉄管導入をめぐる東京市や東京市会をめぐる汚職、技術的限界のための事業遅延と費用拡大により、当初の五年計画に一〇年を要して明治三一年に事業完成をみた。港区域内では、芝に給水場が設置される一方、上水道整備で不要となった従来の麻布水道(明治一二年開設)が廃止された。
 上水道整備の遅れによる費用負担増大は、続く道路拡幅、市街鉄道など交通インフラ整備に大きく影響した。当時、東京市内の主要な交通手段は乗合馬車から馬車鉄道へと推移していたが、衛生的見地から市街電車の導入が急務とされた。これは市区改正事業による道路拡幅、橋梁整備と結びつけて実施されたが、予算的制約で事業計画は進展せず、明治三六年に、優先して行うべき事業を急いで仕上げる新たな速成計画(新設計)が公示された。
 この新設計により、東京市区改正は、市街鉄道(路面電車)の計画を梃(てこ)とした重要道路整備を短期に実現する計画に変わった。市街鉄道と関連する一~三等道路計画の一部が優先される一方、四~五等道路計画が殆ど削除されるなど、道路計画は約九〇路線、総延長約一四〇キロメートルに縮小され、河川や公園整備も計画が縮小された。その一方で、鉄道院や民間鉄道会社による郊外との連絡鉄道の整備が充実されて旧設計の上野―新橋間の一本から新設計では七本に増加し、現在のJR山手線や中央線などの路線の原型となる。明治末期には、後回しになっていた下水道整備に着手したが、その大半が財源不足で未完成のまま、市区改正事業は大正七年(一九一八)までにおおむね終了した。
 この過程で、旧江戸城周辺に集中していた軍用地・陸軍施設が、港区域など東京西部の郊外へ移された。東京鎮台が管轄する第一軍管区では、旧江戸城周辺の大名屋敷を転用した軍関係の役所、近衛師団施設、兵営、練兵場が、皇居、皇族や華族、国家行政の中枢施設を警備していた。明治二〇年代に入り、明治国家の制度確立により治安警備の意義が低下し、旧大名屋敷が老朽化、さらに東京市区改正事業の開始により、陸軍省は日比谷が原・丸の内一帯の軍用地を三菱など民間に払い下げ、その費用で近衛師団以外の既設部隊兵営を一時間程度で皇居に到達できる麻布、赤坂、青山、四谷方面に移転し、あわせて青山、代々木などに新たに広い練兵場を設けることとした(荒川 二〇〇七)。これにより、霞が関の官庁街、丸の内の商業地、日比谷公園整備など都心再開発のための新たな用地が生み出され、これらは明治四〇年代に完成した。
 明治前期の東京は人口減少期にあったが、明治二〇年前後から再び人口増加に転じた結果、東京の人口は明治一五年(一八八二)の九〇万人弱から、明治三五年にはほぼ倍の一六〇万人強となった。この間に進行した東京市区改正事業の主目的であった道路整備は、当初計画の縮小により江戸以来の街並みを大きくは変えず、既存道路の一部における改良にとどまった。このため、江戸以来の町割りは大正の震災復興事業、昭和の戦後復興を経て、現在の東京都心の放射状・環状幹線道路の骨格として維持されている。しかし、市区改正事業により、狭く屈折していた主要道路は拡幅・改良され、東京市内の新たな交通手段として複線の市街電車が整備された。これにより東京の市街地は空間的に拡大し、郊外へのスプロール化が進行する。
 明治後期の人口増加と市街地拡大により、東京各地の地域的特色が次第に顕著となった。都心部では麴町の行政機関、日本橋、京橋、神田の商業地集積を背景として、官員や商人が増加した。江戸時代の「山の手」は麴町、四谷、牛込、小石川、本郷などの高台地域であったが、明治二〇年代以降の住宅地化で麻布、赤坂、青山などの地域もかつての郊外から山の手の住宅地へと性格を変え、官員、華族、紳士などの居住者が増えて家賃が上昇した。一方で、貧民は周辺部への移動を強いられ、芝新網町、四谷鮫が橋、下谷万年町のいわゆる三大貧民窟などに集中した。また、日清戦争前後からの工業化に伴う労働人口流入により、城北・城東地域の小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川などでは著しい人口増加がみられた(玉井編 一九九二)。  (福沢真一)