第二項 明治後期の芝区

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 芝区は、東海道が江戸市街に入る芝口門(現在の新橋)の外側の東京湾岸の地域である。東海道に加えて脇街道の桜田通り(現在の国道一号。江戸城桜田門外から愛宕山西側を南下して神谷町、飯倉の坂を通り、赤羽橋で古川を渡り、三田、高輪を経て五反田方面へ連なる)、旧東海道の二本榎通りなどが通り交通が盛んであった芝では、江戸の市街地拡大の過程で東海道沿いの高輪大木戸を越えた市街地が品川周辺まで線状に拡大し、増上寺を中心とする寺社地、武家地、町人地が混在する地域となっていた。
 明治に入ると、東京と開港地横浜との間に位置する芝は都市化、工業化が著しく進展し、明治政府の殖産興業政策を支える地域となる。前項で論じたように、東京の人口が減少していた明治一〇年代の東京市区改正への摸索の過程において、港区域の大部分は東京の中心市街地の「外」に位置付けられていたが、東海道沿いに市街化が進行していた芝区北部は中心市街地の「内」とされていた。
 明治政府はすべての武家屋敷を収公し、その一部を各大名に再下賜して、それ以外は皇族・華族の邸宅や官用地に転用した。その際に土地形状や地割は大きく変えずに土地利用を変化させた(『図説港区の歴史』六章三節参照)。芝区北部では、明治前期から寺社地の一部や武家地が官有地、軍用地などに転用された。汐留の仙台藩伊達家上屋敷、会津藩保科(松平)家、龍野藩脇坂家の屋敷跡地は、民部省用地を経て東京と横浜を結ぶ鉄道駅に、古川沿岸、河口地域や三田、田町などの武家屋敷跡は官営工場、勧工場、海軍施設、また慶應義塾など各種学校などに変化した。とくに政府による官営工場の設立は、東京・川崎・横浜にかけての京浜工業地帯形成の端緒となった。官営工場の明治一三年(一八八〇)の民間払い下げ後は、民営の近代工場群が芝区を含む東京各地に集積した。江戸時代から、埋め立てにより仙台藩伊達家上屋敷などの大名屋敷地が造成されていた汐留に加えて、明治後期には芝浦でも埋立地が造成され、水陸輸送の利便性から機械工場などが集積して近代的産業資本が形成された。東京市区改正事業では工業地区の設定が見送られたが、芝浦を中心とした工業化により、東京市一五区のなかで芝区は本所区、京橋区とならぶ工業地区へと変化を遂げた(図2-1-2-1)。
 一方、芝区南部の高輪、台地上の白金は江戸郊外の農村地帯に、明暦大火以降に武家地・寺社地が移されて混在するようになった地域である。明治四〇年代以降には芝区南部にも都市化が波及し、高輪御用地、竹田宮邸、北白川宮邸など皇族の邸宅、海軍火薬庫や海軍墓地などの海軍施設、家畜市場などが設けられた。明治末には市街化・宅地化が台地上の地域に及び、華族、代議士、実業家などの邸宅が立ち並ぶようになった。
 

図2-1-2-1 芝浦の埋立地
「芝区芝浦二号埋立地ノ一部」東京市港湾部編『東京市埋立地寫眞葉書』(1937) 東京都立中央図書館所蔵