芝区北部の変化――武家地、寺社地、町人地の混在から工業地帯へ

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 汐留川沿いには町人地、その南側の愛宕下大名小路(現在の新橋赤レンガ通り)沿いの地域には、小藩の上屋敷が集まる武家地があった。また古川沿いの将監橋から三之橋にかけての地域では、各大名の上屋敷や幕臣の邸宅に町人地、百姓地が混在していた。一方、古川以北の愛宕山から芝にかけての増上寺一帯は、寺社地が連続していた。江戸開府以前に芝に移された増上寺は、上野寛永寺とともに徳川将軍家墓所として徳川家の庇護を受けていたが、明治維新後、政府はその広大な寺域の一部を開放して芝公園とし、また官用地、海軍水路部などの軍用地に転用した。明治二一年(一八八八)芝公園内に設置された東京勧工場(現在の慶應義塾大学芝共立キャンパス、港区役所の位置)は、明治一〇年の上野公園での内国勧業博覧会での出品物を陳列、販売して産業振興を図るべく各地に設置され、のちの百貨店の源流となった勧工場のなかでも最大規模のものであった。
 古川以南の三田には外様大藩の大名屋敷が集まっており、薩摩藩島津家は芝の中屋敷、下屋敷に加えて西郷隆盛と勝海舟の会見地となった蔵屋敷、抱屋敷、町並屋敷を、また久留米藩有馬家は水天宮のあった赤羽橋の上屋敷に加えて中・下屋敷を持っていた。薩摩藩上屋敷などは幕府による焼き討ちで幕末以降は荒廃して「薩摩原(さつまっぱら)」と呼ばれるなど遊休地化しており、これらの武家地は明治政府に収公され、水陸交通の利便性からそれらの跡地には海軍施設や官営工場が設置された。
 明治政府の殖産興業政策には、陸海軍や工部省による官営工場と、内務省の勧業政策に関わる施設の流れが存在した。前者の例には、収公された赤羽橋の久留米藩有馬家上屋敷の跡地に明治八年設置された工部省製作局(機械製作工場、有馬邸は水天宮とともに日本橋蠣殻町へ移る)があるが、多大な投資にもかかわらずその効果は低かったため、明治一六年に廃止され跡地には海軍兵器局が設置された。後者の例は、明治一〇年三田の救育院跡地に設置された内務省勧業局育種場であり、洋式農業技術の移植を目指し海外の植物を栽培して種苗(しゅびょう)増殖を図ったが、予期した成果はあがらず明治一八年に閉鎖された。