日露戦争後の芝浦埋立と工業地帯の形成

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 明治一二年(一八七九)の田口卯吉による東京港の国際貿易港化構想以来、松田道之・芳川顕正東京府知事時代に具体化された東京築港計画は、東京市区改正事業に追加されたものの、横浜の反対や推進派の星亨東京市会議長の暗殺などにより明治三〇年代においては政府の認可を得られず実現していなかった。しかし築港計画難航の一方、水陸輸送に適した芝区各地での工業化、工場集積は進んでいた。明治八年に田中久重が古川河口の芝金杉町に日本初の民間機械工場となる田中製造所を開設(電信機製造により官需で成長、明治三七年に芝浦製作所となり、昭和五九年〈一九八四〉に東芝と改称)して以来、明工舎(のちの沖電気)、東京電車鉄道工場、池貝鉄工所、品川電灯、東京電気などの機械工場が開設され、また渋沢栄一らが東京市瓦斯局の払い下げを受け古川河口に東京瓦斯を設立(現在の東京ガスビル)するなど、芝区には明治二〇年代までに民間工場が集積し京橋区とならぶ工場街となっていた(一章四節二項参照)。
 さらに、明治後期の芝浦湾岸埋立は日露戦争後の京浜工業地帯形成の基盤となった。明治三九年(一九〇六)からの隅田川改良工事による浚渫(しゅんせつ)土を利用して芝浦湾岸の埋立地が整備され、小規模船舶の東京港出入りが可能となり横浜港から東京港への物流のシフトが生じた。芝浦には日之出物揚場などの港湾設備と結びついた工場・倉庫街が発展し、隅田川以東の本所、深川などの地域に先行して工業地帯化が進行した(『芝区誌』一九三八、『港区史』一九六〇)。
 芝区湾岸地域の工業地帯化は、江戸時代以来の東海道沿いの地域の状況を大きく変化させた。例えば、江戸初期の寛永年間に成立した「古町」のひとつである芝新網町(現在の浜松町二丁目)は、江戸城へ白魚を献上する漁師町であり漁夫や幕府小役人が多く住んでいた(片倉 二〇〇九)。幕末以降、貧民がこの地域に流入し(『芝区誌』一九三八)、明治には東京有数の貧民窟が形成された。水質など生活環境の悪化からコレラ流行の折には警察当局による下水の浚渫督励が重点的に行われ、近隣の愛宕町には貧民施療のために慈恵病院が設立された(現在の東京慈恵会医科大学)。この芝新網町を含めて、芝区の湾岸地域では次第に工場で働く賃金労働者の集住が進んだ。