現在の麻布や赤坂は、高級住宅地、大使館などが多く洗練された市街地のイメージが強いが、江戸時代は江戸の郊外に属する地域であった。旧江戸城赤坂門外(弁慶堀)の山の手に広がる台地上を大山街道が通る赤坂・青山には広大な大名下屋敷・庭園が多く、郊外の緑と眺望に恵まれた高燥の麻布台地上には、五〇〇〇石以下の旗本・御家人(中下層の幕臣)が居住する、二〇〇〇坪程度の中規模な武家屋敷が分布していた(玉井編 一九九二)。これらの武家地に加えて、大山街道沿いの赤坂には農村や武家地・寺社地に江戸中心部から無秩序に拡大した町地が入り組む「場末の街」が、麻布台地に古川水系の河川が複雑に入り込む麻布では、台地上の武家地に隣接しつつも地形により隔絶された低地の町地が江戸時代以来の賑わいをみせていた。明治初期の武家地での人口減少により、麻布や赤坂では武家地と周辺の町地が一時衰退した。しかし明治二〇年代以降の東京市街地の拡大により、麻布区と赤坂区には皇宮地、官有地、軍事施設が移され、都心の麴町区、京橋区に隣接する旧江戸城南西の後背地として都心の中枢機能を支える地域となった。また市区改正事業での道路・市街電車の整備によって、商業地・住宅地が著しく発展して華族、政財界の著名人、官員、軍人などが居住する東京「山の手」地域へと変貌した。