赤坂の変化――武家地から皇宮地、軍用地へ

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 赤坂の武家地には広大な庭園を含む大名下屋敷が多く、それらは皇宮地とそれを守る軍用地、官用地などに転用された(図2-1-3-1)。皇宮地とされた例には、広大な庭園をもつ元赤坂の紀州藩徳川家中屋敷跡に明治五年(一八七二)に建設された青山御所(戦災焼失後は東宮御所)、同じく紀州藩徳川家上屋敷跡に明治二一年に建設された明治宮殿(仮皇居・赤坂離宮、明治四二年に東宮御所、現在の迎賓館)がある。軍用地・軍事施設とされた例には、明治一九年に青山北町の武家地や鉄砲場跡、寺社地をまとめて整備された青山練兵場(付近には歩兵第四連隊、陸軍大学校も存在した。現在の明治神宮外苑)、明治二六年赤坂檜町の長州藩毛利家下屋敷・清水園跡に歩兵第一連隊(現在の東京ミッドタウン)、赤坂一ツ木町の広島藩浅野家上屋敷跡の近衛歩兵第三連隊(現在のTBSや赤坂サカス)などがある。このように赤坂では大規模な大名屋敷・庭園の区画を維持した大規模施設への転用が多く、中規模な武家屋敷での宅地化が進んだ麻布に比べて住宅地は極めて少なかった。明治後期以降、赤坂の軍事施設や官用地の一部は払い下げられ、公園・緑地、学校、大使館などに代わった。
 皇宮地や青山練兵場など軍事施設の集まる赤坂区は、一五間幅の一等道路として整備された皇居外周の外堀通り(紀伊国坂~溜池~芝桜田久保町~新橋駅)、一二間幅の二等道路として整備された大山街道(赤坂門外~宮益橋)、など、一〇間幅の三等道路として整備された現在の外苑東通りなど、市区改正事業の対象となった道路が多かった。
 江戸城赤坂御門を起点として赤坂・青山台地の尾根を通る大山街道(矢倉沢往還、厚木街道)は東海道など五街道に次ぐ重要な脇街道であり、現在の青山通り(国道二四六号の三宅坂、赤坂見附~渋谷の区間。東京メトロ銀座線、半蔵門線が地下を通る)とほぼ同じルートである。市区改正事業による大山街道拡幅は、青山における土地利用を大きく変化させた。大山街道沿いの梅窓院(南青山二丁目)は、当地に広大な下屋敷を拝領した青山家(尼崎藩、郡上藩など)の菩提寺であり、寛永二〇年(一六四三)建立当時は壮麗な一大伽藍を有し、街道沿いには門前町屋を構えていた。明治維新後、寺社地の収公や廃仏毀釈で周辺の芝増上寺などの寺領が激減する一方で、梅窓院寺領に大きな変化はなかった。大名屋敷地が閑散とする青山にあって、梅窓院周辺には商店や人家が集中していたが、市区改正事業による大山街道拡幅により梅窓院は門前地を失い、寺領は建立当時の約一万三〇〇〇坪から六〇〇〇坪に減少した。拡幅された大山街道には、明治三七年(一九〇四)に赤坂区初の市街電車となる東京電気鉄道青山線が開業(三宅坂~赤坂見附~青山三丁目)、以降赤坂区内での市区改正道路への市街電車延伸が続いた(『赤坂区史』一九四一)。
 

図2-1-3-1 青山御所
主婦之友社編『大東京名所繪はがき集』(1932) 東京都立中央図書館所蔵