麻布・赤坂の環境変化

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 明治中期以降、麻布・赤坂地区の水辺は埋め立てで大きく変化した。江戸城外濠の溜池は、徳川家康の命を受けた浅野幸長による赤坂見附門および外濠整備の一環で整備された。虎ノ門西の汐留川(新橋川)に造られた汐除けの堤防(堰堤(えんてい)、ダム)の上流に形成された溜池は、玉川上水完成後は次第に埋め立てられ、畑、空き地、町屋、旗本屋敷、馬場などに変化していた。明治初期に水を抜かれて干潟になってからは次第に陸地に変化し、明治二一年(一八八八)に溜池町が成立した。東京市区改正事業の当初の設計では水運整備が予定されており、溜池の堤防を廃して水運、排水のため増築する計画であったが、明治三六年の新設計への変更に伴い、埋め立てへ方針転換された。外堀通りが整備され市電が開通する一方で、明治四三年の埋立完工後は外濠としての溜池は消滅して細流となり、周辺では市街化が進んだ。
 麻布、赤坂の複雑な地形に点在した河川や池も市区改正事業や市街化で大きく変化した。赤坂の福岡藩黒田家中屋敷は黒田侯爵邸となり皇室に次ぐ約二万坪の広大な土地を所有し、幕末に築造された「鴨池」では明治でも雁や鴨がおり鷹狩が可能なほど自然が残されていた。しかし、周囲の市街化や環境変化に伴い、明治三三年に埋め立てられた。また麻布宮村町(現在の元麻布二丁目)の幕臣山崎家屋敷には、大火時の蝦蟇蛙(がまがえる)による火消し伝説が伝わる「がま池」があったが、明治三五年にその大部分が埋め立てられて住宅地へと変貌した。現在は、マンションの中庭にその一部が残っている(『麻布区史』一九四一、図2-1-3-2)。
 軍事施設の集中は、赤坂田町、麻布花街など繁華街の形成をもたらした。以前から下級官吏や商人らに利用されていた溜池町の待合茶屋街は、溜池の埋立後に待合が集中移転し、日清戦争を契機として付近の連隊の軍人、商人、下級官吏のための新興の花街として繁栄した。  (福沢真一)
 

図2-1-3-2 元麻布のがま池(昭和6年〈1931〉以前)
麻布鳥居坂警察署編『麻布鳥居坂警察署誌』(1931)から転載