市制下の区の位置

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 明治二二年(一八八九)四月一日、新たな地方制度の骨格をなす法律、法律第一号「市制・町村制」が施行され、東京には一五区から成る「東京市」が誕生した。
 郡区町村編制法のもとでは、「区」は府の下に位置付く自立した行政の単位であったが、市制のもとでは独立した自治体は「市」であり、区は自立した単位としての地位を失う。従来の東京府会とは別に東京市会が開設され、そこで市の予算が審議されるようになるのである。
 しかし、市制の施行当初、東京市の場合には、京都市、大阪市とともに、他の地域と異なる例外規定が設けられた。「市制特例」と呼ばれるものである。その主たる内容は、①市長・助役を置かず、市長の職務は東京府知事が、助役の職務は府書記官が行う、②東京市参事会(参事会とは合議制の執行機関で、本来市長・助役と、市会が選出する参事会員から成る)には市長・助役のかわりに府知事・書記官が入る、③市役所を設置せず、府庁が市の業務を行う、というものであった。
 この市制特例のもとでは、従来の区は存続することになり、区長一名および書記を市参事会が任命し(第四条)、区役所に勤務することになった。また、区は市会議員の選挙区ともなった。
 区会については、東京市の条例として「区会条例」が定められた。その目的は、各区の共有財産および営造物に関する事項の議決とされ、主として共有財産管理に関わるものとして、三新法期に比して役割は限定的なものとなった(「公文類聚 第十三編 明治二十二年 第一巻」)。
 市制特例は、明治三一年に廃止され、東京市には一般の市と同様に独立した市長・市役所が設置された。併せて、東京、京都、大阪では従来の区を存続させること、区は共有財産および営造物に関する事務と、法律・命令に基づいて区に属する事務を処理することが定められた(明治三一年法律第二〇号「市制中追加法律」)。区会は、財産および営造物に関する事務と、「其の他区に属する事務」を議決する機関となった(明治三一年勅令第二一〇号「東京市、京都市、大阪市ノ区ニ関スル件」)。さらに、明治四四年の市制改正で、区は法人格を持つようになった。
 港区域では、明治二二年の市制施行に際して、区と郡部の境界が引き直されている。例えば、荏原郡白金村の大部分を芝区に編入する内示が東京府から芝区になされたが、芝区で実地調査をしたところ、寺院のみで住戸がない地域があるため、この部分は郡部にとどめて荏原郡大崎村に編入し、残る部分は芝区に編入するのが妥当であると、芝区長久住秋策は、明治二一年八月一〇日付で東京府書記・市制町村制施行順序取調委員長の銀林綱男に回答している。同日付で、荏原郡長から銀林宛で、同じ内容の上申も出されていることから、区役所・郡役所・東京府で、郡部・区部の境界について、調整が図られたことがわかる。従来郡部に属していた地域でも、市街地化されていた地域は、この機に区部に編入されたのである。反対に、三新法期には区内であった地域でも、市街地化していないところは郡部に編入された。麻布区では、広尾方面で、天現寺橋から広尾橋に至る川が区と郡の境界線とされた。赤坂区では、原宿・青山・渋谷方面で南豊島郡と境界線を引き直している(「市町村制施行順序取調書」)。このときの境界が、現在の港区の境界とほぼ一致する(埋立地を除く)。例えば、渋谷宮益町(現在の東京都渋谷区渋谷)は、三新法期には赤坂区に属していたが、市制・町村制施行に伴い、赤坂区ではなく南豊島郡渋谷村に属することになり、現在では渋谷区に属している。