区会と区財政

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 これまで述べてきたように、市制施行に伴い、区および区会の権限が及ぶ範囲は縮小した。区会が決すべき主たる案件は、区の小学校の維持や増設に関わる問題となった。
 三区のうち、毎年度の歳出総額と歳出費目が判明する芝区、赤坂区について、歳出総額の推移と教育費率を示したものが図2-2-1-2と図2-2-1-3である。ここから、明治三七~三八年(一九〇四~一九〇五)の日露戦争までは同水準で推移し、その後、歳出額が増加していることがわかる。一方、総額の増加にも拘わらず、区財政の八割前後を一貫して教育費(小学校費)が占めていたことがわかる。市制施行後の区会・区財政の焦点が小学校の維持にあったことが読みとれる。
 これらの財政を支える収入面をみてみると、住民から徴収する区費のほか、財産収入、補助金、授業料、借入金が主なものであった。市制施行によって、区は地租附加税として区費を徴収する権限を失ったが、家屋税附加税、さらに所得税・国税営業税・府営業税・雑種税・売薬税に対する附加税を徴収することが認められた。これが「区費」の内容をなす(『芝区誌』一九三八)。その後、明治四四年市制改正に伴い、同年勅令第二四五号第一三条「区ニ属スル市税」の規定により、区において「特ニ賦課徴収」し、市会ではなく区会が議決する市税、いわゆる「区ニ属スル市税」が創設され、区費に代わる財源となった。
 財政支出の相当部分を教育費が占めていたとはいえ、区会の政治的役割がもっぱら教育行政面にとどまっていたかといえばそうではない。区会は、東京市政や、区内で起きる諸問題に関する決議を通じて、区会の意思をしばしば表明していた。例えば、市制特例の廃止を求める運動では、各区会が特例廃止を求める決議を行っている。
 また、明治後期の東京政界の焦点となっていた市街鉄道の所有・建設・運営方針をめぐっては、芝区会が明治三二年一〇月に市街鉄道私有反対の決議(『東京朝日新聞』明治三二年一〇月一〇日付)と、明治三九年八月に電車賃値上げ反対決議(『東京朝日新聞』明治三九年八月二二日付)を、麻布区会が明治四二年一〇月に電車市営化に関して買収価格が高価となることを危惧する建議を行っている(『麻布区史』一九四一)。
 衛生・医療の分野では、明治二六年四月に芝区会が伝染病研究所の区内移転に反対する決議を行っていたり(『東京朝日新聞』明治二六年四月二九日付)、麻布区会が明治三六年一月に本所病院のペスト患者を広尾病院に移送することに反対する決議を行っていたりする(『麻布区史』一九四一)。また、すでに触れたように区会が区長の留任を求める建議を行うこともあり、赤坂区でも明治三四年一一月に近藤区長の留任を求めている(『赤坂区史』一九四一)。総じて区会は東京市民の負担の問題や地域の利害を訴える場となっていたといえよう。  (松沢裕作)
 

図2-2-1-2 芝区の歳出総額・教育費率(明治30~大正7年)
『芝区誌』(1938)をもとに作成

図2-2-1-3 赤坂区の歳出総額・教育費率(明治30~大正7年)
『赤坂区史』(1941)をもとに作成