明治期の東京の府会・市会各種選挙では、全体として、区を単位とする「公民団体」と呼ばれる組織の影響力が強かったといわれる。「公民」とは、明治二二年(一八八九)に施行された市制・町村制において、政治参加の資格を持つ住民のことを指すが、そうした公民団体が選挙前に予選を行って候補者を絞り込み、無競争での選挙となることが多かったからである。その一方で、議員の政党色はあまり強くなかった(櫻井 二〇〇三)。
しかし、こうした状況は区による違いが大きく、総じて芝・麻布・赤坂の三区では、安定した公民団体が継続的には存在せず、毎回の選挙で複数候補による競争が発生していた。
芝区では、無競争であったのは明治二三年の府会議員選挙と、日露戦争後の市議一級選挙のみで、公民団体としては交和会・教導会・懇話会・三縁会などの名前が新聞紙上等でみられるものの、いずれも継続的には活動していなかった(櫻井 二〇〇三)。明治三六年の府会議員選挙では、本芝二丁目(現在の芝四丁目)の斎藤茂吉を候補者に推すグループが、「芝睦会」と称し、料理店で会合を開いたが、この際、斎藤が会合の費用を負担したことが選挙法の違反にあたるとして斎藤が警察署に拘引されたとの報道がみえる(『東京朝日新聞』明治三六年九月九日付)。明治四〇年の府会議員選挙では、芝区は「市内第一の激争地」と報じられており、三田四国町の料亭「春日亭」で、対立する候補者の運動員が乱闘騒ぎを起こしている(『東京朝日新聞』明治四〇年九月二六日付)。
こうしたなか、芝区の政界で存在感を示していたのが弁護士の中鉢美明(ちゅうばちよしあき)(図2-2-2-1)である。中鉢は明治二九年から明治四一年まで連続して市会議員を務め、明治三五年の第七回衆議院議員総選挙では衆議院議員に当選、明治三六年八月から明治三八年一月まで、東京市助役を務めている。
中鉢は自由党・立憲政友会系列に属し、自由党の領袖、星亨(ほしとおる)が東京市会に進出して勢力を扶植しようとした際には、その運動の一翼を担い、「星の乾分(こぶん)」とも報道されている(『東京朝日新聞』明治三四年八月二五日付)。星の葬儀にあたっては東京市会を代表して弔辞を読んだ(『東京朝日新聞』明治三四年六月二七日付)。一方、二章二節一項で触れた明治三二年の芝区会市街鉄道私有反対決議に際しては、星の影響下にあるグループが民営の市街鉄道計画を推進していたため、中鉢を含む市会議員に対して、場合によれば辞職勧告をすることが芝区会で決定されている(『東京朝日新聞』明治三二年一〇月一〇日付)。
麻布区では、明治三六年の府会議員選挙に際し、区会議長黒田綱彦の名義で府会議員候補者予選会を開いたところ、これを黒田の議長職権乱用として批判する者が別に「有志茶話会」を立ち上げたとの報道がみられ(『東京朝日新聞』明治三六年八月一日付)、ここでも安定した公民団体は存在しなかったようだ。
赤坂区では、赤坂地区と青山地区が対立する構図だった。公民団体としては、赤坂地区に同好会(同交会・公同会)、商工会、青山地区に青山協和会あるいは赤坂倶楽部があり、両者はしばしば対立した。しかし、府会議員選挙でも市議選でも、赤坂側・青山側が交渉・妥協して競争を回避することも多かった(櫻井 二〇〇三)。
総じて三区とも、東京府の他区に比べると、公民の団結は強くなく、選挙に際しては競争的な状況が生じやすかったといえる。ただし、だからといって有権者の政治に対する関心が高かったわけではないようだ。明治三二年九月二七日、『東京朝日新聞』は「東京府民の自暴自棄」と題する社説で、府会議員選挙の投票率の低さを批判しているが、「麻布区の如きも小石川と同じく競争者ありしに猶且百分の四十以上棄権したり」と、麻布区では候補間の競争があったにもかかわらず棄権が四割以上に上ったことを問題視している。
明治三二年、星の東京市会進出によって、各区公民団体によって支えられていた東京市の政治には亀裂が生じ、星の影響下に入った市会議員と、これに反発する、区会・区公民団体を拠点とする区レベルの有力者たちとの対立が生じたといわれている(池田 二〇一二)。芝区における中鉢の位置は、このように星派の市会議員と区を単位とする有力者の対立の一事例であるが、そもそも有力公民団体が存在しない芝・麻布・赤坂の三区では、まとまりが弱く、政治に関心が高いともいえない区の公民たちと、進出してきた政党勢力とが絡み合い、選挙のたびごとに流動的な状況が繰り返されたといえそうである。
図2-2-2-1 中鉢美明
『新選代議士列伝』(金港堂、1902)国立国会図書館デジタルコレクションから転載