こうした流動的な政治状況では、民衆を都市の政治に統合していく回路は十分に機能していなかった。日露戦争後になると、東京では民衆暴動が相次いで発生するようになる。その嚆矢(こうし)となったのが、明治三八年(一九〇五)九月五日から六日にかけて発生した日比谷焼打事件である。
日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の内容が、日本に不利であると考えた政治団体が、講和反対を掲げて、九月五日、日比谷公園で集会を開いた。警察はこの集会を禁止しようとしたが、集まった民衆は警察の制止を振り切って公園になだれ込んで集会は開催され、その後、日比谷公園に面していた内務大臣官邸を襲撃した。内務大臣官邸には軍隊が出動して鎮圧にあたったが、民衆はそこから東京市内各方面に分散し、各地で離合集散を繰り返しながら警察署・交番を焼き打ち・襲撃した。この段階では攻撃対象は日露戦争講和条約とは直接の関係はなく、民衆の日常的な不満が背景にあったといわれる。
港区域に暴動が波及するのは、内務大臣官邸焼き打ちが鎮圧される九月五日の午後七時以降で、日比谷から芝方面に向けて移動した焼き打ちの波が、芝大門、宇田川町、露月町、愛宕下町、御成門、芝園橋、金杉橋、赤羽橋、札の辻から芝田町四丁目まで達し、その一部が分岐して麻布区飯倉町、飯倉狸穴町に至っている。芝警察署(現在の愛宕警察署)管内では同日夜から翌日未明にかけて二五の派出所が、麻布警察署管内では三つの派出所が襲撃されている。翌六日夜から七日未明に再燃した暴動では赤坂区内でも二つの派出所襲撃が起きた。ほとんどの派出所では民衆の襲撃によって警官は逃亡したが、三田四国町派出所の巡査は、「派出所を焼く前に先づ自分を殺せ」と叫んで路上に座り込み、襲撃を撃退したというエピソードが伝えられている(社会問題資料研究会編 一九七四)。 (松沢裕作)