第三項 明治後期~大正初期の地域住民組織

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 一章二節でみたように、近世的な町がその機能を失ったのち、町会・町内会につながるような組織が生まれるまで、区より狭い範囲を単位とする地域住民組織は空白期を迎える。
 しかし、そうした組織がまったくなかったわけではない。大正・昭和期に「町会」「町内会」と組織されたもののなかには、その起源を明治期にまで遡るものもある。明治期にそうした結びつきが生まれたのには、いくつかのきっかけがある。
 第一に、神社の氏子が、町を単位に団体をつくっていたことである(伊藤 二〇一六)。例えば、赤坂区伝馬町二丁目(現在の元赤坂一丁目)では、明治二一年(一八八八)頃に町内有志が「頼義会」という団体を組織したが、それは「氷川神社町総代」とそのほかの町務を担ったという(『赤坂区史』一九四一)。
 第二に、町の行政的機能が消滅したのちも、町内地主を中心とした緩やかな親睦団体が存在する場合である。例えば、麻布区飯倉町一丁目(現在の麻布台一丁目)では、明治二五年頃、「地主、家主、古参者」から成る「睦会」が組織されており、麻布区永坂町では、明治二〇年頃から蕎麦屋更科本店の店主堀江松之助を会長とする「有志会」が存在した。同じく麻布区坂下町(現在の麻布十番二丁目)では、明治二二年七月、二二名の地主・差配人によって町会規約が定められたという(『麻布区史』一九四一)。しかし、こうした地主による親睦団体は、町の全住民を組織するものではなかったことはもちろん、全地主が加入するとも限らず、あくまで有志による団体にとどまったようだ。
 第三に、日清戦争・日露戦争をきっかけとして結成された軍事援護組織である。これは、町内からの出征兵士の送迎や援助にあたることを目的としていた。芝区では最も古い時期の町内組織に属する芝金杉二丁目(現在の芝一~二丁目)の水魚会は、明治二七年、日清戦争に際して組織され、兵士の送迎のほか、祭礼、旅行、親睦増進を目的としていた(『芝区誌』一九三八、篠田 一九三一)。
 第四に、明治三三年、東京府が衛生組合設置の方針を打ち出し、各町に衛生組合を組織させたことである。しかし、この衛生組合の活動が、その後、継続したかどうかは場所によりまちまちである。芝区では、衛生組合が治安維持を目的とする「自衛組合」という組織に移行し、それが関東大震災後の町会に連続している例が散見される(篠田 一九三一)。
 しかし、これらの組織はいずれも、組織として持続性が弱く、安定していなかったうえに、そうした組織が存在しない地域も多かった。例えば、麻布区内の高級住宅地である鳥居坂町(現在の六本木五丁目)・東鳥居坂町(現在の六本木五丁目)では、関東大震災までなんらの町内組織も存在しなかった(『麻布区史』一九三八)。一章二節三項では、港区立郷土歴史館所蔵の「麻布本村町会資料」には、一八八〇年代以降の府や区からの布達(ふたつ)が残っていないことを述べたが、本村町では日露戦争に際して「睦会」が組織されたのち、大正八年(一九一九)になって麻布区長の勧めによって本村町会が組織されたと記録されている(『麻布区史』一九四一)。実際、「麻布本村町会資料」には、一八八〇年代からの長い空白をはさんで大正一五年の会計帳簿まで史料は残されていない。近世的な町の解体後、市制施行から大正前期までの港区域は、住民を束ねる組織の空白期であったといってよかろう。前項でみたような、府会議員選挙や市議選挙での流動的な状況は、住民同士の結びつきの弱い地盤のうえで展開していたのである。  (松沢裕作)