公立小学校の増設

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 明治三〇年代になると、人口増加による学齢児童増加や就学義務化による就学児童増加のため、公立小学校の設立が急がれた。小学校の維持・増設に対し東京市が補助金を提供することになり、明治三二年(一八九九)以降、「市立小学校建設費補給規程」により市費から予算の三分の一、明治三五年からは二分の一の補助が行われるなど、市費補助の割合は徐々に増加し、公立小学校の増設が本格化していった(土方 二〇〇二)。
 明治三三年八月には小学校令が再び改正された。従来の尋常小学校が三年制と四年制の二つの課程をもっていたことを改め、尋常小学校四年間を義務教育年限とした。授業料は非徴収を原則としたが、特別な事情がある場合は府県知事の認可により授業料の徴収が認められた。東京市では授業料を廃止せず、小学校令施行規則に則って、芝、麻布、赤坂の三区も二〇銭程度の授業料を徴収していた。二〇銭とは私立小学校の授業料と同額程度であり、公立小学校の授業料が従来よりも低く設定されたことにより私立小学校から公立小学校への移動が起き、私立小学校の衰退に拍車をかけた。
 明治四〇年三月の小学校令改正により、義務教育年限が二年延長されて六年となった。高等小学校は二年ないし三年となった。これを受けて東京市は、修業年限二年の高等科を併置する小学校はそのまま尋常小学校とすること、修業年限四年の高等科を併置する小学校は、高等科三、四年に相当すべき生徒を高等小学校の第一、二年に移すこと、尋常小学校と高等小学校の併置を認めながらも、それぞれを分離し独立校とすることとした(『麻布区史』一九四一)。
 港区域では、明治一二年の芝学校以後、明治二三年に赤坂小学校中之町分校として設置され、明治二七年に独立した中之町尋常高等小学校まで公立小学校の新設はなかったが、その後、明治三〇年代に愛宕、三河台、本村、青南の各尋常小学校、四〇年代には筓、芝浦、西桜、台町、氷川、麻中、三光、麻布台南(のち絶江小学校と改称)、聖坂の各尋常小学校と、鞆絵、愛宕、麻布、赤坂、青山、御田の各高等小学校が設立された(図2-3-1-1)。
 明治三三年八月の小学校令改正以降、就学率も年々上昇しており、とくに赤坂区が高い就学率を示している(表2-3-1-1)。港区域のなかで赤坂区の就学率が高かったのは、経済的に恵まれた地域であったからだろう。
 

図2-3-1-1 青南小学校の授業の様子(明治40年〈1907〉)
『港区教育史』(1987)から転載

表2-3-1-1 学齢児童の就学率(単位:%)
『東京府統計書』、『文部省年報』をもとに作成