不就学児・就学困難児への対策

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 明治後期の東京市では産業化・工業化に伴う都市問題が深刻化しており、それによって児童労働、不就学、中途退学、健康問題、学習困難などの多様な教育的課題が生じていた。不就学児・就学困難児への教育的対応は、それまで宗教家や有志らによって開設された私立小学校を中心として行われてきた。例えば、麻布区には慈育小学校や扶宗小学校があった(土方 二〇〇二)。こうしたなかで、東京市は貧困地域や貧困層の子どもの就学率の低さに着目し、市の事業として授業料無料・学用品給貸与を行う特殊小学校を開設することにより就学率向上を目指した。明治三六年(一九〇三)に大規模な貧困地域の下谷区万年町(現在の東京都台東区東上野)、深川区霊岸町(現在の東京都江東区白河)、四谷区鮫河橋(現在の東京都新宿区若葉)などに特殊小学校が設置され、その後、都市下層・貧困層が集住する地区に大正七年(一九一八)までに一一校の特殊小学校が設置された。港区域内の特殊小学校は、芝浦尋常小学校と絶江(ぜっこう)尋常小学校である。
 芝浦尋常小学校は、芝区新網町(現在の浜松町二丁目)に明治四〇年(一九〇七)に開設された。同校では定期的な診療や沐浴、理髪など児童の衛生面の配慮も行った。一般の学習は小学校令および同令施行規則に則って行われたが、生活に恵まれない子弟の就学維持のため、家計補助と職業訓練を目的とした「特別作業」という学科を設置した。
 絶江尋常小学校は、代用私立慈育小学校の事業を引き継ぐ学校として明治四二年に麻布区本村町(現在の南麻布二丁目)に開設された。同校は芝区白金三光町、麻布区新広尾町の木賃宿など、麻布・芝周辺の都市下層を対象としており、授業料を免除し、学用品を支給し、寄宿を提供する教育的救済法を実施した。また、白米を廉売して児童家庭の困窮を救い、児童の欠席や退学を減らそうとした(石井・髙橋 二〇一九)。
 一方で、明治三九年以降、義務教育未修了者で、種々の事情により昼間就学できない児童のために特殊夜学校が各区に設置された。特殊夜学校は小学校令第一七条に基づく「小学校ニ類スル各種学校」の一つであり、卒業者には義務教育修了の認定をした。授業料は無償で、修業年限は二年とし、教科を原則として「修身」「国語」「算術」の三教科に限定し、普通教科を速成的に授けるものであった。港区域では、芝区の南海尋常小学校に芝第一夜学校、芝浦尋常小学校に芝浦夜学校、麻布区の飯倉尋常小学校に麻布第一夜学校、麻布尋常小学校に麻布第二夜学校、本村尋常小学校に絶江夜学校、赤坂区の青山尋常小学校に赤坂第一夜学校、赤坂尋常小学校に赤坂第二夜学校が設置された。これらの特殊夜学校は大正五年(一九一六)に尋常夜学校、昭和一六年(一九四一)以降は国民夜学校と改称され、昭和一九年頃まで存続したとみられる。 (小山みずえ)