明治二三年には港区域で最初の公立幼稚園として、赤坂小学校中之町分校内に赤坂高等尋常小学校附属幼稚園が設立された。幼児定員は五〇名、保育料は七〇銭から一円とし、公立でも私立幼稚園と同程度の保育料が必要であった。保育内容は「東京女子師範学校附属幼稚園規則」(明治一七年改正)に準拠するものであり、恩物一三種と会集、遊戯、唱歌、修身、庶物、読み書き算で編成され、小学校の予備教育的な保育が行われたものと推察される。明治二七年に中之町尋常高等小学校が独立・設置されたことにより、その名称は中之町尋常高等小学校附属幼稚園に変更された(図2-3-3-1)。
各地では、文部省による学齢未満幼児の就学禁止が契機となり(一章三節三項参照)、明治二〇年代に入ると幼稚園の設立が急速に進められた。明治二〇年に六七園であった幼稚園数が三年後の明治二三年には約二倍の一三八園となり、明治二八年には二〇〇園を超えた。こうした幼稚園の普及を受けて、明治三二年六月に文部省令第三二号「幼稚園保育及設備規程」が公布された。同規程は、幼稚園の保育目的、編制、組織、保育内容、施設設備などに関して国が定めた最初の独立法規であった。これにより、幼稚園は満三歳から就学までの幼児を保育し、保育時間は一日五時間以内、保育内容を「遊嬉」「唱歌」「談話」「手技」の四項目とする基本的枠組みが示された(恩物は「手技」として一括化された)。当時、幼稚園の保育は恩物中心の課業主義との批判にさらされており、同規程にはそうした状況を脱却し、「遊嬉」を中心とした保育を目指す姿勢が表れている。なお、「幼稚園保育及設備規程」は翌三三年の小学校令改正に伴い、同令施行規則のなかに組み込まれた(その際、「遊嬉」は「遊戯」に改められた)。
明治二〇年代以降に港区域で新設された幼稚園を挙げれば、表2-3-3-1のとおりである。
全国的にみれば、明治四二年までは公立幼稚園の数が私立幼稚園を上回っていたが、東京府では小学校と同様に私立幼稚園が優位であり、とくに明治三〇年代以降に私立幼稚園の数が増加した。港区域に設置された公立幼稚園は赤坂区の中之町尋常高等小学校附属幼稚園と青山尋常高等小学校附属幼稚園の二園で、芝区・麻布区には明治期を通して公立幼稚園は設立されなかった。なお、青山尋常高等小学校附属幼稚園は小学校の児童数増加のため明治三六年に閉園となり、小学校の東隣の地に私立青山幼稚園が設立された。また、宗教関係の幼稚園の設立が目立つのも港区域の特徴であり、榎坂幼稚園、頌栄(しょうえい)幼稚園、啓蒙学校附属幼稚園、聖心女子学院小学校附属幼稚園、朝日幼稚園はキリスト教系、高輪幼稚園は仏教系幼稚園であった。
明治四四年の小学校令施行規則の改正では、画一に規定することによって保育の進歩発達を阻害し、保育の本旨を誤るおそれがあるとして、保育項目の内容に関する規定が削除された。戦前を通じて幼稚園教育に関する法的規制は最小限にとどめられ、現場の実情に応じた自由な保育を可能にした。 (小山みずえ)
図2-3-3-1 中之町幼稚園の子どもたち(明治30年〈1897〉頃)
『港区教育史』(1987)から転載
表2-3-3-1 明治後期に設立された幼稚園一覧
『港区教育史』上(1987)、『東京教育史資料大系』6・7・8(東京都教育研究所、1973)をもとに作成