日本で最初の保育者養成機関は、明治一一年(一八七八)に設置された東京女子師範学校保姆練習科であった。当時は幼稚園数も少なく、保母を希望する者もあまりいなかったため、保姆練習科は明治一三年に第一回卒業生を出した直後に廃止となり、東京女子師範学校本科の課程に幼児保育法の科目を加え、幼稚園保母の養成も行うことになった。明治二〇年代に入ると、幼稚園数の増加とともに保母不足の問題が生じ、民間においても保育者を養成する機関が現れてきた。
東京府では、桜井女学校幼稚保育科が明治一七年に置かれたのが最初であった。榎坂幼稚園の保母を務めた湯浅はつは、同校の第一回卒業生であった。
明治二一年、芝麻布共立幼稚園内に東京府教育会附属幼稚園保姆講習所が設立された。東京府教育会は、明治一六年に府下教育の改良進歩を図ることを目的として有志者によって設立された会であり、その事業の一つとして保姆講習所を新設することが決議されたのである。設立者の木寺安敦が初代主幹となり、芝麻布共立幼稚園長の近藤はまが教員を務めた。保姆講習所は保母の速成養成を目的としており、講習期間は六か月とし、午後二時から四時までという短時間で授業が行われた。「東京府教育会附属幼稚園保姆講習所規則」には講習員の資格の一つとして「幼稚園保姆若しくは小学校教員及授業生の職にある者」(第四条)を挙げており、現職の保母または補助者の再教育を兼ねていたようである。学科は「開誘(かいゆう)法」(木ノ積立、板排ヘ、箸排ヘ、鐶排ヘ、画キ方、紙刺シ、縫取リ、紙剪リ、紙織リ、鎖繋キ、組板、組紙、紙摺ミ、豆細工、土細工、数ヘ方、読ミ方、書キ方などの諸法)、「遊嬉(ゆうぎ)法」(諸遊嬉法)、「唱歌」(単音唱歌)、「実地授業」であり、週時間数は「開誘法」が六時間と最も多く、「遊嬉法」が二時間、「唱歌」が三時間、「実地授業」が一時間であった。ここには保育の本質を理解するために重要なフレーベルの思想、教育や保育の原理などの科目はなく、実技の習得のみに徹していたことがわかる。
明治二二年一月、近藤はまから「幼稚園保姆練習所設置願」が東京府知事宛に提出された。この保姆練習所が東京府教育会附属幼稚園保姆講習所とどのような関係にあるかは明らかではないが、設置場所は同じ芝麻布共立幼稚園内(現在の芝公園三丁目)であった。しかし、東京府教育会附属幼稚園保姆講習所はその二日後に京橋区築地への移転願を東京府に提出している(清水 二〇一四)。生徒定員以外、練習期間、授業料、入学資格などは東京府教育会附属幼稚園保姆講習所と同一であり、なぜ近藤が同じような養成機関を同じ場所に設置しようとしたのかはわかっていない。
なお、東京府教育会附属幼稚園保姆講習所は明治二五年に東京府からの補助金の減額により一時休止し、明治二八年に東京府教育会附属保姆伝習所として再開した。このとき、養成期間が一年に変更された。その後、明治三一年に廃止となり、明治三三年に再度設置され、その後も不安定な運営状態が続き、大正一一年(一九二二)に帝都教育会附属教員保姆伝習所と改称された。その際、東京府女子師範学校内に移転し、現在は竹早教員保育士養成所として続いている。 (小山みずえ)