日露戦争が勃発すると、国民の戦意を高揚させる手段として通俗教育が活用され、銃後活動を支える地域団体によって通俗教育が活性化していく契機となった。明治三三年(一九〇〇)に東京市教育会が設立され、同会内の経営事業調査委員会では「通俗教育演説会及講談会を開く事」が決定され、とくに講談会は定期的に開会することとされた(『東京市教育時報』)。例えば、明治三八年一〇月七日には、芝区愛宕小学校において通俗講談会が実施されている。林謙三「満州視察団」、棚橋一郎「学制に就て」、志田太郎「社会的暗示と教育」の講話が行われた(『東京市教育会雑誌』)。
明治前期までの就学奨励を目的とするだけの通俗教育ではなく、明治三〇年代になると戦時色の強い講話に交じって、教育や衛生道徳に関わる講談が見られるなどより啓蒙的な成人教育へと変化がみられる。