盛り場としての新橋・赤坂

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 盛り場は、一般的に、飲食店や喫茶店を中心に、遊戯場や寄席、三業地などの娯楽施設によって構成されている。表2-4-1-1は、盛り場について、芝区・麻布区・赤坂区における明治期末の店舗数を示したものである。同表からわかるように、三区のなかでは芝区に多くの店舗が立地しており、その数は東京市全体の一割程度である。
 芝区内で最も繁栄した盛り場は、新橋駅を中心とする地域であった。商業地として発展した新橋周辺には、「湖月楼」や「伊勢源」といった東京を代表する飲食店が軒を連ねていた。また、東京の玄関口であるとともに、官庁街からも近い新橋は、官吏や政商らの遊興の地としても有名であった。新橋の花街は、銀座七丁目から外堀端や木挽(こびき)町、築地方面にまで広がっていた。
 一方で、新橋に対して、赤坂は新興の繁華街であった。赤坂周辺には官庁街や住宅街が近在していたことから、下級官吏や商業者などの遊興地であった。そして、日清戦争や日露戦争を契機として、近隣の御用商人や軍人らを集客することで発展していった。当時の赤坂には、三井財閥の発展に尽力した実業家の中上川(なかみがわ)彦次郎の旧邸を利用した店舗で、すき焼きが有名な「幸楽」や、朝鮮料理の「明月館」、京都料理の「瓢亭(ひょうてい)」、しっぽく料理の「ながさき」、金沢料理の「梅月」などの飲食店が集まっていた。また、赤坂区田町四丁目から五丁目(現在の赤坂二~三丁目)にかけての地域には花街が広がっていた。赤坂を代表する芸者として、新橋の照葉と双璧を成し、「酒は正宗、芸者は萬龍」と当時から評判であった萬龍が挙げられる。萬龍は三越呉服店のポスターに登場するなど、当時を代表する芸者であった。
 

表2-4-1-1 芝区・麻布区・赤坂区における店舗数(明治44年〈1911〉)

注1)「遊技場」は、大弓・揚弓・球戯・室内射的・空気発銃・吹矢・魚釣・碁会所の合計。
注2)「見せ物」は、常設と仮設の合計。
東京市役所編『東京市統計年表 第10回』(1913)をもとに作成