勧工場の開設

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 勧工場は、明治一〇年(一八七七)に東京の上野で開催された内国勧業博覧会での売れ残り物品を陳列販売するために、東京府が物品陳列所を開設したことに始まる。勧工場では、呉服や小間物、文房具、食器、玩具、化粧品などを中心に、諸外国の物品なども幅広く販売されていた(図2-4-1-4)。明治一一年、麴町区永楽町(通称辰ノ口、現在の東京都千代田区丸の内)に開設された府立第一勧工場は、明治一三年に民営化される。この時期には民営勧工場が相次いで開設され、二〇世紀初頭にかけて、市民の消費活動を支える拠点であった。表2-4-1-2にもあるように、明治二一年、府立第一勧工場の系譜をひく東京勧工株式会社が設立され、芝公園内で営業を開始した。明治二七年には、芝区内では、東京勧工株式会社(芝公園地内)、清隆館(愛宕下町〈現在の新橋三~六丁目〉)、実業館(三田四国町〈現在の芝二丁目〉)の三つの勧工場が営業していた。
 このうち、『官報』の記載によると、明治二四年三月における東京勧工株式会社列品館への来場者数は四万二五八九人、同所の販売商品数は三万六八点、売上高は八九四四円八六銭四厘であった。二〇世紀初頭の勧工場の概況について、『東京市統計年表』をみると、明治三五年末における東京市内の勧工場は二七か所であり、港区域については芝区の東京勧工場(東京勧工株式会社)のみが記載されている。東京勧工場は、三四五店の陳列店を備え、年間の売上高は九万一六八六円であった。これは、内国商品陳列館の七〇〇店、帝国博品館の九万七七五三円に次いで、それぞれ東京市内で二番目の規模を誇るものであった。この東京勧工場では、歳暮大売出しや紀年祭などのイベントが行われていた。また、中国やシンガポール、ロシアなどの日用雑貨品などを貿易見本品として陳列するなど、諸外国の文物を日本に紹介する役割を果たしていた。児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)は、芝公園の勧工場で箸や人形などを購入し、その後、近隣の高級飲食店である「紅葉館」で食事をしたことを、日記に記録している。
 このように、明治後期に隆盛を極めた勧工場であったが、大正期に入るころには粗悪品の横行などにより衰退していく。東京勧工場の場合、明治四四年の陳列店は三一店に過ぎず、室内宝飾品や陶磁器、化粧品、小間物を取り扱う店のみが、複数出店していた。この店舗数は、最盛期の一〇分の一程度であった。その後、東京市における消費の中心地は、百貨店にとって代わられていく。    (三科仁伸)
 

図2-4-1-4 芝公園勧工場(明治26年〈1893〉頃)
『東京景色写真版』国立国会図書館デジタルコレクションから転載