芝区の工場群の展開と大工場

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 一九世紀末から二〇世紀初頭の日本では、産業革命と呼ばれる資本主義経済の基礎をなす大きな変革が起き、全国各地に近代的な工場が建設された。東京、大阪には昼夜二交代制で稼働する紡績工場、養蚕が盛んな長野県では、蒸気や水力を用いた器械製糸の製糸場が稼働し、そこで作られた綿糸や生糸は重要な輸出品として日本経済を支えた。こうした工場の出現は、工場で働く労働者を登場させた。紡績業では寄宿舎制度を利用して地方から多くの女性を募集するなど、当該期の日本の製造業は多くの女性労働者によって支えられていた。日本の産業革命の中心は紡績、製糸、織物といった繊維産業であったのである。
 一方、機械、化学、金属といった重工業は、欧米の先進諸国との技術的な格差のもと、多くの製品が輸入されていたため、民間での発展には限界があった。主に、軍工廠(ぐんこうしょう)や八幡製鉄所など官営の工場群やそれと密接な関わりを有する工場で輸入代替や技術の向上が図られた。加えて一九〇〇年代には後述する芝浦製作所や日本電気が、外資であるウエスタン・エレクトリック社やゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携するなど、国内での機械産業の展開を支えていた。こうした日本を代表する機械メーカーとなった芝浦製作所や日本電気は港区域に工場を有していた。明治三四年(一九〇一)に港区域内で職工数一〇〇人以上をかかえた工場は、日本電気(職工数一六五人)、富岡機械製作所(職工数一五〇人)、芝浦製作所(職工数四四一人)、緒明造船所(職工数一八〇人)、東京製綱(職工数一五三人)、村井兄弟商会東京工場(職工数九五三人)、大塚製靴(職工数一七五人)であった。
 このような大工場だけでなく、東京や大阪の大都市には中小規模の機械工場も集中するようになった。高価な輸入品ではなく安価で実情に合わせた機械を製造する工場が求められたのである。港区域でも大工場の周辺に中小工場が集積するようになる。芝区、現在の三田から浜松町にかけての一帯には、機械産業の工場が密集していた。芝区の工場数も明治二八年の二四から明治三六年は七〇、明治四一年には七二、明治四五年は一一〇工場と年々急増している。明治三六年当時の七〇工場のうち、動力機関が設けられていた四九の工場で電気を利用していたのは、日本電気製作所と東京電気のみであった。ほかには蒸気・ガス・水力などが動力として利用されていた。電力を使用した工場の発展は、第一次世界大戦期に拡大することになる。