鉄道の発展

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 明治五年(一八七二)に新橋―横浜間に日本で初めての鉄道が開通し、港区域内には新橋駅と品川駅が設けられた。明治末期から大正初期に流行した鉄道唱歌では、新橋―品川間の車窓について、「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として 右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも 窓より近く品川の 台場も見えて波白き 海のあなたにうすがすむ 山は上総(かずさ)か房州か」と詠まれている。海岸付近を走行し、線路から愛宕山がみえる景色であった。
 新橋駅は、明治四二年に電車専用線(「院電」)用の駅として開設された烏森駅(高架駅)を改称するかたちで、大正三年(一九一四)、西側に移転した。一方で、旧新橋駅は汐留駅と改称され貨物専用駅となった。品川駅は、当初海岸付近に設けられたものの駅拡張工事によって明治二九年(一八九六)に現在の場所に移転され、区南部の交通の拠点として機能した(のち大正一四年〈一九二五〉に京浜電気鉄道が乗り入れる)。新橋・品川駅の混雑解消と、市街地の発展から港区域内には、新橋・品川の中間駅として浜松町・田町駅が明治四二年(一九〇九)に設置された。現在の山手線のように周回するのではなく、新橋から浜松町、田町、品川から渋谷、新宿、池袋を経て、上野や赤羽を結んでいた。
 大正元年(一九一二)の『汽車汽船旅行案内』によると、新橋・品川を経由する電車線(院電)の運転間隔として、七分から八分に一本の電車が運行されていた。大正元年度の乗車人員数は、新橋駅約二六〇万人、品川駅約一二〇万人、浜松町駅約一七万人、田町駅約四三万人であった(市内トップは、上野駅約三七〇万人で、新橋駅に次いで新宿駅約一八〇万人)。大正三年に東京駅が開業するまで、新橋駅は東京から名古屋、大阪以西を結ぶ起点として、長距離列車の発着駅、また市内交通の要所として機能していた。