鉄道馬車や乗合馬車が中心であった市内交通は、二〇世紀に入り衛生面での苦情の多さなどから電気で動く路面電車への切り替えが進められた。明治三六年(一九〇三)に民営の路面電車が走りだし、東京市内には三つの電気軌道の会社が誕生した。新橋・品川間を走る東京電車鉄道、愛宕や芝園橋を走る東京市街鉄道、赤坂を走る東京電気鉄道とそれぞれが港区域内に展開していた。いずれも、東京鉄道会社に合併したのち、明治四四年に東京市電となった。市電化後も路線網が拡張し市内各所から様々な系統に路線が広がっていた。区域内では、新橋や赤羽橋などいくつかの停留所が拠点となるとともに、青山や三田には車庫が設置された。当時、市電に乗車するために各種案内や便覧が発行され、各区の町名一覧と最寄りの停留所とがあわせて掲載されていた。地方から東京に訪れる人だけでなく、東京市内の住民にも不可欠な存在であった。大正三年(一九一四)に開かれた大正博覧会をきっかけに、複雑な路線網を識別するため車両の側面に系統番号を取りつけた。番号は、車庫ごとにつけられ、三田車庫が一番、青山車庫二番と続き、大正四年までに広尾一一番までつけられた。
一方、明治初期に登場し、市内交通の中心であった人力車は減少した。『東京市統計年表』より明治三四年(一九〇一)と明治四五年で比較した場合、明治三四年の市内全体の人力車数は約四万四七六〇台で、芝区三六九二台、麻布区一九二四台、赤坂区一二〇九台であったが、明治四五年には市内全体の人力車数は約二万二〇〇〇台となり、その内訳は芝区一三二六台、麻布区一〇七四台、赤坂区六二五台へと一〇年間で半減した。一方で、自転車は明治三四年に市内四六二〇台(芝区四六五、麻布区二二六、赤坂区一六五台)が明治四五年には一万五二一〇台(芝区一一〇九、麻布区三三〇、赤坂区三三九台)へと増加した。また、自動車が一九一〇年代には普及し、明治四五年時で市内一五〇台、芝区で二一台、麻布区で七台、赤坂区で一一台が登録されていた。市電の発展と自動車の登場によって、市内交通の中心も大きく変化していくことになる。 (高柳友彦)