農畜産業

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 明治中期の東京市内には農業従事者は少なく、明治三四年(一九〇一)の時点で麴町区、京橋区、神田区、日本橋区、四谷区に農業従事者はいなかった。港区域内の農業従事者は、芝区二二戸、麻布区九戸、赤坂区六戸であった。一方、港区域内の農地は、芝区で田九町と畑五七町、麻布区で田二・五町、赤坂区で田一・五町と畑〇・七町が残っていた。明治初期にわずかながら行われていた農業は二〇世紀初頭には激減していた。
 一方で、乳牛の飼育が盛んであった。明治期以降、都市部を中心に牛乳を飲む習慣が広まり、市内で牛乳の搾取・販売に携わる者が増加していた。港区域は東京市内のなかでも牛乳の生産・販売が盛んな地域の一つであった。牛乳の製造・販売は、牛の飼育と搾乳を行う搾乳業者と牛乳を販売する販売業者(請売・小売)に分けられていた。明治三八年の市内の搾乳業者六四のうち、芝区一三、麻布区七、赤坂区四であった(販売業者数はあわせて芝区一一八、麻布区二八、赤坂区二六)。市内では、ほかに深川区一六のみで、神田区・日本橋区・京橋区・麴町区には搾乳業者はいなかったため、港区域が搾乳の中心であったといえる。同年の乳牛数は一〇五七頭で、明治三八年には芝区で一八三頭、麻布区で八七頭、赤坂区では六三頭の乳牛が飼育されていた(市内一位は深川区の二二三頭であった)。搾乳量も乳牛数に応じて港区域は多かった。
 港区域には東京市の搾乳・販売業者を代表する者が集まっていた。例えば、前田留吉は明治七年に芝新銭座町(現在の東新橋二丁目)でアメリカから輸入した乳牛で牛乳搾取販売業を興し、明治一九年に誕生した東京府下牛乳搾取販売営業組合の役員を務めることになる。同組合の組合員一三〇人中、港区域は芝区一五人、麻布区一一人、赤坂区三人であった。