第一項 感染症研究の進展

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 明治二五年(一八九二)、ドイツ留学から北里柴三郎が帰国する。北里は東京大学医学部を卒業した医学士であったが、母校東京大学の教授やこれを所管する文部省の官僚とは折り合いが悪く、ドイツでの研究成果が認められ、「世界のキタサト」と称されながら帰国したものの、明治政府の扱いはいささか冷淡であった。一方、北里の才能を評価する長与専斎初代内務省衛生局長は、北里の研究場所の確保が必要であるとして、この実現に向けて動く。長与は幼少時代より学問ができることで知られる俊才ではあったが、物事の決定には慎重に周旋するタイプであり、このときは適塾以来の盟友で港区域で慶應義塾の運営に携わっていた福澤諭吉に相談した。この長与の申し出を受け、自分の管理する土地を北里の研究所のために提供し、不足する資金については、やはり福澤を信頼する実業界の実力者であった森村市左衛門を頼った。森村は福澤の判断、動機、態度、そして北里の目的、力量、手腕に注目し、資金援助を承諾したという。この長与、福澤、森村といった北里の理解者が尽力した結果実現したのが日本の感染症研究でのちにも記憶されることとなる伝染病研究所、通称「伝研」である(図2-5-1-1)。
 「伝研」は当初、芝区芝公園の地に設置され、ほどなくして長与が主唱して設立した大日本私立衛生会の管理下におかれ、明治二七年には政府の援助もあり、芝愛宕町(現在の西新橋三丁目)の内務省用地に移転する。この移転にあたっては感染症への恐怖から住民の反対運動が起こったが(『読売新聞』明治二六年四月二八日付ほか)、福澤の協力もあり、なんとかこれに理解を得て、「伝研」の拡張が成就した。
 「伝研」は、大日本私立衛生会の管理のもと、私立として運営されていたが、明治三二年には内務省管下となり、明治三八年には芝白金三光町(現在の白金三・五丁目)にあった血清薬院と麻布富士見町(現在の南麻布四丁目)にあった痘苗製造所が「伝研」の業務に吸収されたことからより広い敷地を求めて芝白金台町(現在の白金台四丁目)に移転する(図2-5-1-2)。
 私立と内務省管下の時代、北里はこの「伝研」を舞台に、研究に熱心に取り組み、その知見を明治三〇年の伝染病予防法制定に向けて動いていた後藤新平に提供し、そして多くの後進の指導を実践した。
 北里の薫陶を受け、日本の感染症研究に尽力したことで知られるのは、例えば北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助、高木友枝、野口英世などである。
 北島多一(図2-5-1-3)は北里の高弟として、ハブ毒の血清療法の研究に打ち込んだ。のちに北里が設置に尽力する慶應義塾の医学部にて、北里の職責を受け継ぎ学部長に就任するなど、その信頼が厚かったことで知られる。
 志賀潔は明治二九年、東京帝国大学で医学を修めたのち、「伝研」に入所し、赤痢大流行に際して患者からその病原菌を確認する。これはのちに世界的に認められるようになった。
 秦佐八郎の「伝研」入所は明治三一年であり、当初はペストに関する論文に取り組むが、明治四〇年、欧州に留学すると梅毒の治療剤サルバルサンの開発への貢献が評価される。秦の研究により梅毒の化学療法が進展し、帰国後もサルバルサンの研究を続け、国産化への道を拓いた。
 宮島幹之助(図2-5-1-4)は東京帝国大学大学院で学んだ後、京都帝国大学において寄生虫学を講じるが、明治三五年、内務省管下の「伝研」に入所し、北里の薫陶を直接受けることとなり、以後、北里を支持した。
 高木友枝は帝国大学で医学を修めたのち、福井県立病院長、鹿児島県立病院長を経て、北里が「伝研」での研究を始めたとの報に接するとこれに合流し、感染症研究の推進に与るようになる。
 明治前期は日本の医師制度の草創期であり、徳川幕藩体制期において資格化されていなかった医師の資格を国家資格とし、これを普及させようとしていた時期であった。医学教育に関しても「変則医学」、「正則医学」と区別して議論されていた。そのため高木のように帝国大学で「正則医学」を修めた医学士は、卒業と同時に地方の病院長として直ちに赴任する道が用意されていた。
 高木は明治三〇年より欧州に留学し、細菌学への理解を深め、帰国すると明治三三年には内務省本省にて、長与やその腹心であった後藤と同じように、そしてかつての北里のように「衛生官僚」としての職責を担うようになる。高木は日本のペスト対策に奔走した。
 高木が内務省の衛生行政の効果を高めるべく尽力する一方、かつて日清戦争後の検疫事務にともにあたった後藤が台湾総督府へと活動の場を移すと、高木を評価する後藤の計らいで台湾に赴任する。明治三五年のことであり、同地での生活は昭和四年(一九二九)に帰国するまで長きにわたったが、高木はここで台湾の医学教育および衛生行政に取り組み、感染症の恐怖を人々に知らしめるべく工夫した。その結果、台湾における「医学衛生の父」、「台湾衛生学の父」などと評されるようになった。
 野口英世も北里に恩義を感じる一人である。野口は高等教育を受けることなく、医術開業試験を受けて医師資格を取得し、医学研究に分け入った。北島や志賀など北里の下には東京帝国大学出身者が多くいたが、野口はこれらと比較すると異色な存在であったのかもしれない。しかし北里は学歴で野口を評することなく、その「野心」に期待した。野口が北里のもとにいたのは半年ほどであったが、「伝研」を後にして渡米すると、蛇毒の研究などで注目されるようになった。
 こうしてみてくると北里は明治二五年(一八九二)以降、「伝研」でそうそうたる医学者の養成と衛生行政の進展に寄与したのが明らかとなる。ところがこの北里が育てた「伝研」が内務省から文部省へ移管されることが決定されると、北里はこれに激怒し、その所長の職を辞するべく辞表を提出した。そして自身の研究環境を整えるべく、福澤などとともに立ち上げた結核治療の土筆ヶ岡養生園に隣接する地に北里研究所を新設する。このとき、北島や志賀など「北里一門」もこの北里の行動に呼応した。港区域では北里を中心に人々の健康を実現するべく、日本、そして世界の感染症研究の進展が目指されていた。  (小島和貴)
 

図2-5-1-1 「伝染病研究所設置の顛末」
国民新聞 明治25年(1892)12月18日付 協力:東京新聞

図2-5-1-2 白金台町の伝染病研究所(明治39年〈1906〉)
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念室

図2-5-1-3 北島多一
杉謙二編『華族畫報』下(吉川弘文館、2011)から転載

図2-5-1-4 宮島幹之助
慶應義塾福澤研究センター所蔵