2-5 コラム 北里柴三郎

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 感染症対策を行政の側から、法制度を用いて進めようとしたのが長与専斎であるとするならば、港区域を拠点に医学の知見の進展に寄与することでこれを進めようとしたのが北里柴三郎(図2-5-コラム-1)であった。
 北里は熊本医学校(現在の熊本大学医学部)、東京医学校(現在の東京大学医学部)を経て内務省衛生局の官僚となり、日本の感染症予防に尽力する。患者の治療に効果を発揮する狭義の医療にとどまらず、より広く公衆の健康を医学の力で実現することを求めた北里は、東京医学校在学中には「医の真の使命」を論じていた。すなわち「天下ノ蒼生ヲシテ各其健康ヲ保チ其職ニ安ンシ其業ヲ務メシメ以テ国家ヲ興起富強ナラシムルニ在」り、日頃より住民には「摂生ノ道ヲ理解セシメ置」き、感染症の流行時などには「一層ノ注意」を促すことであった(「医道論」)。そして感染症が流行した後の対応を、泥棒を捕らえてから縄をなうようなものであり「下策」と酷評した。感染症の予防などを進めることで人々の健康を達成しようとするこの構想は「衛生官僚」となることで実現の道が開かれていく。北里の目指したのは「医の政治」であった。
 北里が内務省入りを果たすと、そこには長与の部下として後藤新平がいた。後藤も北里も明治一六年(一八八三)の入省であるが、後藤のほうがわずかに早かったことから北里は後藤の部下となる。しかしこれが北里には面白くない。北里も後藤も医師資格をもつ官僚という点では同じであるが、当時の医学教育が邦語文献を通じて医学に接近する「変則医学」と、原書を通じた「正則医学」に分かれており、後藤は前者を、一方で北里は後者を修めていた点が異なっていた。医学士である自分が「変則医学」を修めた一介の医師から内務官僚となった後藤の下につくことをよしとしなかったのである。この二人のライバル意識には上司である長与も随分と苦労したようである。
 内務省入省以降、日本国内でのコレラ菌の確認などを実現した北里は、当時「実験室医学」で注目されたベルリン大学での研究のため渡独する。この新たな地で当時では困難とされていた破傷風菌の純培養に成功するなど数々の研究業績を上げたことで、日本からドイツに赴いた「衛生官僚」は、明治二五年(一八九二)に帰国するころには「世界のキタサト」と称されるまでになっていた。
 帰国した北里を出迎えたのは長与であった。長与はこの時、衛生局長の職をすでに辞していたが、適塾以来の盟友である福澤諭吉に相談し、その活躍の場を用意するのであった。
 福澤は官途に就くことはなかったが、当時を代表する思想家であり、同時に「ベストセラー作家」として近代日本の建設に大いなる影響力を有することで知られ、港区域では慶應義塾を運営し後進の育成に熱心であった。長与には福澤が「日本文明の先達者」であり、「新知識の輸入者」と映っていた。
 北里の研究能力を評価した福澤は「学事の推輓(すいばん)は余が道楽の一つなり」(小川・酒井校注 一九八〇)といって伝染病研究所(図2-5-コラム-2)の設置のために動いた。北里はこの施設を活用することで国民の「健康保護」の実現を目指した。
 北里のスタイルは、細菌学に自身で携わり、ここでの知見を行政に反映させることで国民の「健康保護」の実現を図ろうとするものである。そのため北里にとってこの伝染病研究所、通称「伝研」での活動は重要であった。北里はここで大いに研究し、後進の指導にも励んだ。北里の指導の成果は、赤痢治療に貢献した志賀潔や梅毒の治療剤サルバルサンの研究で知られる秦佐八郎などが輩出したことに現れ、「北里一門」と称される細菌学・衛生行政人脈の形成へとつながっていった。
 「伝研」設立の翌年、明治二六年には、結核治療に関心のあった北里は、ここでも福澤や長与の支援を受けて結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」の運営にもあたる。大正期に入り設立された日本結核予防協会でも北里は中心的な役割を果たした。
 「伝染病予防法大意」にて北里は「伝染病の流行なからしめんと欲せば、先づ未萌に之を防がざる可からず、是れ伝染病予防法の本旨にして又公衆衛生家の任務なりとす、然らば如何なる方法を以て伝染病を予防し得べき乎、之を行はんと欲せば、宜しく伝染病々原たる病毒の性質を明かにし、且其病毒は如何なる経路によりて吾人を侵襲する乎を悉さざる可からず」(読点筆者)とした(北里柴三郎論説編集委員会 一九七八)。明治三〇年(一八九七)には戦後まで活用され続ける伝染病予防法が後藤新平内務省衛生局長の下で成立するが、これに北里も協力する。二人はライバルではあったが、後藤がドイツへ留学した際に頼ったのが北里であったことに見えるように、互いに実力を認め合う仲でもあった。同法の立案作業にあたった窪田静太郎は「此法案(伝染病予防法案―筆者注)の基礎たる技術上の新智識は固より北里博士から出て居たことは明であります」(日本医師会出版部編 一九三一)と述懐する。
 大正元年(一九一二)の地方衛生技官に向けた講習会の席上、「俗務に追はれると(中略)云ふても吾々其道に当って居る者は決してそれには賛成しませぬ」として執務時間前に二時間くらいは「ラブラトリー」にて仕事をするよう北里は求めた(北里 一九一二)。人々の健康とこれを実現するための研究への北里のこだわりである。
 「伝研」が文部省の管下に置かれると、これをよしとしない北里はここを去り、自ら大正三年に北里研究所を設立し(二章五節一項参照)、さらに恩義のある福澤の残した慶應義塾が医学部を設置しようとするときには初代医学部長を引き受け、終始一貫、研究と後進の指導に情熱を燃やした。  (小島和貴)
 

図2-5-コラム-1 北里柴三郎
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念室

図2-5-コラム-2 北里研究所(大正4年〈1915〉)
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念室