明治以降、芝、麻布、赤坂の各区には住民の健康のための医療・衛生施設の設置等が進められる。港区域では東京府病院や、北里柴三郎が主導した伝染病研究所および北里研究所あるいは高木兼寛の東京慈恵会医院や日本赤十字社などの活動が記憶される。
明治六年(一八七三)、施療病院が必要とされたことから皇室よりの下賜金を基として愛宕町二丁目(現在の西新橋三丁目)に東京府病院が設置され、翌年、開院した。病院では岩佐純や佐々木東洋などのちに名を遺す医師やお雇い医師が治療にあたった。設置当初は府下病院あるいは愛宕下病院と称されたが、明治九年四月より東京府病院と改称される。外来・入院患者に対して有料で治療を施したが、明治九年に天然痘が流行したのを受けて生活に困窮する者に対し無料接種を行うようになる。明治一〇年六月の東京府布達では病気にかかり自費で医療を受けることが困難な者に対して施療券を発行し、診察料および薬代を無料とした。