高木はイギリスのセント・トーマス病院への留学から帰国すると、イギリス流の医療の普及に関心を持ちこれを実現するべく尽力するようになる。高木からすると当時日本の医学を先導したドイツ流の東京大学の医学が研究に重きを置くものであると映り、イギリス流の患者を優先した医療の提供を具体化するべく医療施設の設置に動いた。その結果、明治一五年(一八八二)には有志共立東京病院の開院にこぎつける。
その後、医療の提供に関心を寄せる皇室のはからいにより昭憲皇太后を総裁に迎え、新たに「慈恵」の名を冠し、有志共立東京病院を東京慈恵医院と改称する。慈恵医院は、生活困窮者の医療救助を目的として、皇室の下賜金ならびに、華族、官吏、あるいは名望家などの夫人を中心とする会員の醵金で維持された。このほか金額の多少を問わず、寄付金、衣服などの物品の寄贈を受けて運営した。会員には、醵金の額に応じて施療紹介証を分け、出資者の紹介によって患者の治療を行った。紹介がなくても、患者自ら来院すれば無料診療を行っていた。有志共立東京病院および東京慈恵医院の時代から、看護婦や産婆の養成にも取り組んでいた。
明治四〇年、社団法人東京慈恵会が設立されると、東京慈恵医院は東京慈恵会医院とされる。同医院には附属医学専門学校および附属看護婦教育所が設置された。大正一二年(一九二三)の関東大震災で医院は消失するも、直ちにバラックを建設し診療を続けた。
図2-5-2-1 東京慈恵会医院の全景(明治末から大正期か)