日清戦争期までの警察機構の状況

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 本項では、明治二〇年(一八八七)前後に整備された明治憲法体制下での日本警察の歴史的展開と、港区域における治安維持機構の関連について述べる。明治一八年の内閣制度創設、明治二一年の法律第一号「市制・町村制」公布、明治二二年の大日本帝国憲法公布、明治二三年の帝国議会開設など、この時期のわが国は立憲体制への転換期を迎え、また明治二七年の日清戦争開戦前後から、国内の産業化・工業化が進展した。
 この時期の東京は、明治初期からの人口減少期を脱して人口増加が顕著となり、明治二〇年代以降の東京市区改正事業による上水道整備、既存道路改良と市街電車網の整備などにより市街地が拡大した。芝区では新橋駅や品川駅を中心に市街電車網が整備され、工場労働者を中心に人口が増加した。麻布区では現在の六本木通り、外苑西通りなどに市街電車が開通し、霞町、森元町、鳥居坂町などの武家地跡を中心に宅地化が進んで山の手の住宅街への変貌が進み、赤坂区でも青山通り整備によって市街電車が開通し、政財界の要人、軍高官などの邸宅が増加した。
 港区域における警察機構は、明治二六年に芝愛宕町警察署が高輪警察署を併せて芝警察署となり芝区全域を管轄することとなった。それに伴い、芝警察署が芝区全域を、麻布警察署が麻布区全域を、赤坂表町警察署が赤坂区全域を管轄する体制となった(麻布鳥居坂警察署編 一九三一および『芝区誌』一九三八、『麻布区史』一九四一、『赤坂区史』一九四一)。明治一九年の地方官官制により府県知事は内務大臣の指揮下で管轄区域内の警察事務を総括すると定められ、各警察署は管内の高等警察(政治活動などの取り締まり)、行政警察、司法警察を管轄し、治安維持に加えて市民の日常生活全般にわたる幅広い権限を行使するものとされていた。具体的な警察の取り締まり対象には、各種の営業活動、風俗、交通、建築、危険物、衛生(伝染病予防、消毒、検疫など)といった領域が挙げられる。
 江戸時代からの町地として繁栄していた麻布区飯倉や、市区改正事業で新たに整備された水辺の地域(明治二一年に埋め立てられた赤坂区溜池、明治三〇年代末期に埋め立てられた麻布区古川沿岸の麻布十番)などの新開地では、周辺の軍事施設などと結びついた花街、繁華街が形成されていた(森記念財団編 一九九二)。これらの地域でのいわゆる三業(料理屋、待合、芸者屋の三種の営業。これらが許可された地域を三業地という)や江戸時代から残る岡場所(私娼街)などに対して、所轄警察による取り締まりが実施されていたが、その事例として当時の麻布警察署による明治三三年制定の行政執行法に基づく飯倉の岡場所摘発などが伝えられる(麻布鳥居坂警察署編 一九三一)。