日露戦争後の警察機構の状況

296 ~ 298 / 353ページ
 明治三八年(一九〇五)の日露戦争終結後、経済成長を続けていたわが国は転換期を迎える。軍事費増大による財政難に対処すべく増税と財政整理が行われたが、都市民や商工業者、小作農民などはこれに反発した。明治三八年に日比谷公園での日露講和条約反対の国民大会を契機に発生した大暴動(日比谷焼打事件)に続いて労働騒動、小作争議も発生し、これは大正二年(一九一三)の憲政擁護運動による大正政変に至る。
 政府・内務省警察によるこの動きへの対処としては、第二次山縣有朋内閣による明治三三年(一九〇〇)制定の治安警察法(従来の治安立法を集大成し、集会・結社などの取り締まりを目的に、届出制度や加入制限の禁止、労働者の団結権・同盟罷業権の制限などを規定)、西園寺公望内閣の原敬内務大臣による明治三九年の警視庁改革(高等課を新設し社会主義結社、労働運動への取締強化などの措置)、大逆事件を契機とした明治四四年の警視庁特別高等課の新設(思想運動、政治運動の取締強化)などが挙げられる。
 このような治安取締強化と並行して、都市化・人口増加が顕著となった明治四〇年代の港区域では、一時、警察支署・警察分署の増設が行われたが、まもなく支分署は廃止となったためこれらは統廃合により警察署に統一された。芝警察署管轄の芝区では明治四三年にその支署・分署が芝口、西久保、新堀、三田、高輪、白金に設置され、それまでの芝警察署は芝愛宕警察署と改称された。しかし大正二年(一九一三)に芝口・西久保の支分署は愛宕警察署に合併されて芝愛宕警察署に、新堀・三田の支分署は合併により芝三田警察署に、高輪・白金の支分署は合併により芝高輪警察署と改められた。この結果、大正期の芝区は北部を芝愛宕警察署、中央部を芝三田警察署、南部を芝高輪警察署が管轄する体制となった(『芝区誌』一九三八)。
 一方、人口増加で治安維持が課題となっていた麻布区では、霞町分署が明治四三年(一九一〇)に昇格して霞町警察署となり、従来の麻布警察署(同年に鳥居坂警察署に、さらに大正二年に麻布鳥居坂警察署に改称)との二警察署体制に移行した(麻布鳥居坂警察署編 一九三一および『麻布区史』一九四一)。その後霞町警察署は大正四年(一九一五)に材木町に移転して麻布六本木警察署と改称された。
 赤坂区では、明治四一年(一九〇八)に設置された青山分署が明治四四年に昇格して赤坂青山警察署となり、従来の赤坂表町警察署との二警察署体制となった(『赤坂区史』一九四一)。なお、この時期の赤坂表町警察署管内では、大正元年(一九一二)に幽霊坂(現在の乃木坂)付近に居住していた乃木希典大将夫妻の殉死事件が発生している。かつて赤穂浪士が切腹した麻布・北日ヶ窪町の長府藩毛利家屋敷の長屋で嘉永二年(一八四九)に出生した乃木は、明治天皇大喪の日に自刃してその生涯を閉じた。  (福沢真一)