明治期のわが国の消防体制

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 明治後半に入ると、わが国の消防の近代化は加速する。明治以降、都市部以外の地域においては、義勇消防組織が地域の消防資源を独占していた。当初義勇消防組織は、市町村の条例によって設置された消防組ないしは、有志によって設置された私設消防組が存在した。政府は明治二七年(一八九四)に勅令で「消防組規則」を制定し、公設消防組を新設、府県知事の所管とした。そして私設消防組は、制度上禁止されることとなった。公設消防組設置の試みは、共助ではなく公助性の強い義勇消防組織を全国に拡大しようとする試みであった。つまり官設消防署が設置されていない地域では、共助組織であった義勇消防組織を公助組織に昇格させようとする取組みであった。ところが公設消防組の予算はすべて市町村が拠出しなければならず、市町村の財政的資源不足が全国的普及の足を引っ張った。結果的に、私設消防組は様々な形態で、多くの地域で戦前期を通し残るかたちとなる。しかし、東京市内においては、重点的に整備されてきた官設消防体制が機能してきたことにより、私設消防組は全面的に禁止された。
 また、明治四三年に、東京以外で大阪に官設消防が設置され、さらに神戸市、函館市、名古屋市が明治後半から相次いで常設消防化するなど、東京以外の都市部の消防体制の強化が図られ始めた。東京では、明治二四年に、警視庁の組織、機構の改革に伴い、警視庁官制が改正され、消防本署が消防署と改正された。