明治期の東京の消防体制

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 東京においては、近代的消防技術の導入も進み、明治二五年(一八九二)に警察署―派出所、消防本署―消防分署―消防派出所間で火災などの指示および通報を迅速化するため、非常報知器の運用を開始した。また、明治一七年に初めて一台採用した蒸気ポンプが、明治二二年までには八台体制に強化された。さらに、明治三一年に改良水道工事と並行して消火栓の設置が行われた。同時に、水管馬車ならびに手引水管車が増設された。明治三六年には、ドイツのリーブ社製の救助はしご車が導入された。
 港区域内の消防体制としては、芝区、麻布区を管轄区域に持つ消防第二分署(現在の芝消防署、東新橋二丁目)が、明治二〇年に芝区新幸町(現在の新橋一丁目)に幸橋派出所を創設した。さらに、明治三六年に第三分署(現在の麴町消防署、東京都千代田区麴町)が、明治三七年には第二分署が、耐火構造による洋風建築物に建て替えられる。
 また明治三九年に再度官制が変更されたことで、消防署が消防本部へ、消防分署は消防署へと改称された。それにより第二分署は第二消防署、赤坂区を管轄する第三分署は第三消防署に改称された。
 明治後半に入ると、蒸気ポンプの増強や地下水道による消火栓の普及に伴って、東京においてそれまでのような大火は減少する。