その一方で、明治二〇年代中頃から次第に、プロテスタントでは教勢の不振が目立ちはじめていく。その理由として、欧化主義の反動、内村鑑三不敬事件、井上哲次郎の「教育と宗教の衝突」を巡る論争、教会内における信仰復興の反動、日本基督一致教会と日本組合基督教会による合同運動の失敗、有力な指導者の死亡、進化論の流行などが挙げられる。その影響はとりわけ農村部に顕著にあらわれたといわれているが、港区域においても、キリスト教主義学校への入学志願者の減少と、新神学の振興という傾向が見られるようになったので、順に確認していこう。
プロテスタントが不振のなか、キリスト教主義学校の入学を志望する人数も減っていき、閉校を余儀せざるを得ない学校が現れはじめる。港区域を見ると、例えば、神学部と普通科を併設していた東洋英和学校では、明治二八年に、校内に設けていた尋常中学校を東洋英和学校から制度上で分離させ、認可を得たうえで私立麻布尋常中学校(現在の麻布中学校・高等学校)を開いた。そこでは、男子に向けた普通教育を施して、旧制一高など高等教育への進学に力を入れることを目指した。
実のところ、入学志願者の減少には、様々な要因が作用していた。教頭を務めていたオドラムが誤解で生徒に制裁を行って、全生徒のストライキや新聞の攻撃にまで発展する事態が生じたことや、オドラムに代わって教頭心得になった宣教師のラージが明治二三年に強盗に襲われて死亡した事件など、穏やかならぬ空気が漂っていた。また、東洋英和学校がキリスト教主義を基盤とし、公立とは異なる学科課程を設けていたことから、制度上では各種学校に位置付けられていたことも、生徒数の減少につながったといわれており、日本社会の現実とキリスト教の狭間で揺れるキリスト教主義学校の姿を看取することができよう。
また、プロテスタントが振るわなくなった要因として、新神学が振興したことも指摘されているが、翻(ひるがえ)って港区域においては、その新神学の一種であるユニテリアンが活動を行っていた。前述したとおり(二章六節三項参照)、アメリカ・ユニテリアン協会から派遣されたアーサー・メイ・ナップが福澤諭吉の支援を受けていたこともあり、港区域は、ユニテリアンの活動拠点ともなったのである。
そもそも、ユニテリアンとは、キリスト教の正統派が掲げる三位一体論に反対して、神の単一性を主張し、神性をもつのは神だけであるとして、イエスの神性を否定する教派である。一八世紀から一九世紀にかけて、とくに発展し、イギリスとアメリカで広まった。日本では、明治二三年にユニテリアン協会の本部が麻布区飯倉町に置かれ、その後京橋区加賀町への移転を経て、同二七年に芝区三田四国町(現在の芝二丁目)に移り、惟一館(いいつかん)を新築した(図2-6-1-1)。ジョサイア・コンドルの設計で建てられた惟一館の開設に際して、福澤も祝辞を送っている。惟一館は、日本ゆにてりあん協会、日本ゆにてりあん弘道会、先進学院によって利用された。先進学院とは、日本ゆにてりあん協会が明治二四年に開校した東京自由神学校が改称されるかたちで、明治二六年に成立した学校であり、惟一館がユニテリアンの拠点となっていたといえよう。
もっとも、その一方で、ユニテリアンの活動には、低調の兆しもあらわれ始めていた。ユニテリアンを支持していた政府の有力者たちが亡くなるとともに、援助をやめる者もみられるようになった。また、病のために帰国したナップに代わって明治二二年に来日したクレイ・マッコーレイは、周囲からの協力を得ることに苦難し、明治三〇年頃には福澤も支援から手を引いたが、その背景には、慶應義塾の運営をめぐるユニテリアン側との不和があったともいわれている。その後、次第に日本でのユニテリアンたちの活動は、労働運動との結びつきを深めていくこととなる。
以上のように、様々な課題が生じつつも、いわゆる不平等条約の改正に伴い、明治三二年にキリスト教は政府から公認される。これを受けて、宗教政策や教育政策の文脈における政府の規制が実施されるなかで、キリスト教のさらなる振興を目指す試行錯誤が行われることとなる。
表2-6-1-1 明治26年(1893)の港区域におけるプロテスタント教派別の教会数
天田儀八編『日本全国教会便覧』(福音舎、1893)および大濱徹也著、鳥居坂教会百年史編纂委員会編『鳥居坂教会百年史』(日本基督教団鳥居坂教会、1987)をもとに作成。
なお、原則として教派の名称は『鳥居坂教会百年史』に従った。
図2-6-1-1 惟一館(明治27年〈1894〉完成)
監修者所蔵