条約改正とキリスト教公認――明治三二年から明治四三年まで

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 明治三二年(一八九九)に条約改正が実施されたことに伴う政府の宗教政策として、同年七月二七日内務省令第四一号が発せられた。これにより、政府による宗教行政の対象として取り扱われるようになったことをもって、キリスト教はようやく政府から公認の地位を得るに至った。
 しかし、その反面、政府は、明治三二年八月三日文部省訓令第一二号「一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件(以下、「訓令第一二号」)」を発令して、文部省が公認した中学校においては宗教上の儀式・教育を行ってはならないと命じ、キリスト教主義学校を規制する姿勢も示す。港区域においても、このような情勢に即した動きが生じるので順に見ていこう。
 明治三二年八月一六日に六校のキリスト教主義学校によって代表者会議が行われた。そのなかには、港区域に所在していた明治学院と東洋英和学校も名を連ねており、東洋英和学校が開催場所とされた。会議の結果、キリスト教主義の堅持を掲げる共同声明に向けて協力することとなり、また、各派プロテスタントの宣教師と日本人指導者による学校委員会も組織され、政府との交渉が本格化していく。
 そもそも、政府が認めた尋常中学校に在籍すると、徴兵の猶予や高等学校への進学に関する特典などが認められていたため、学生にとっての大きな利点となっていた。「訓令第一二号」によれば、キリスト教の儀式や教育を行う場合は、文部省からの公認を得ることができず、その結果として、尋常中学校であれば得られる種々の特典も認められない。実際に、明治学院はキリスト教主義教育の実践を貫くべく、尋常中学校の資格を返上し、普通学部の設置願を提出したが、在籍していても徴兵猶予等の特典が得られないため、退学者が続出したといわれる。
 このような状況においてキリスト教から離れる学校もあった。東洋英和学校では明治二八年に校内に設置した尋常中学校と東洋英和学校と制度上で分離させたうえで私立麻布尋常中学校と改称した。このため、東洋英和学校は神学教育を施す普通課程と教職試補が学ぶ神学科のみとなっていたが、同三三年に消滅したといわれる。
 しかしながら、「訓令第一二号」が撤回されることはなかったものの、キリスト教主義学校の交渉の努力は実を結んだ。例えば、明治学院普通部は、明治三三年に徴兵の猶予が認められ、翌年の全国官立高等学校校長会議における入学規則改正により、高等学校進学の権利が回復した。また、明治三六年には専門学校無試験検定校に加えられたうえ、同三七年には高等学校無試験入学指定校となり、中学校令に基づく中学と同等の資格を獲得するに至った。
 そして、一連の出来事をきっかけに、協力を志したキリスト教主義学校の男子校が集まり、明治四三年に基督教教育同盟会を組織した。同じく、女子校も大正二年(一九一三)に女子基督教教育会を立ち上げ、第一回目は普連土女学校で開催された。なお、これらの組織は大正一一年に合流して基督教教育同盟会という名称に統一され、加盟校は六三校に上った。
 また、キリスト教の興隆を志す活動として、プロテスタントの教会による二十世紀大挙伝道が行われる。キリストの降生から二〇世紀を迎えた第一年目を記念するとともに、信仰の広まりを目的として、大挙伝道を明治三四年(一九〇一)に実行することが福音同盟会の会議において決議された。福音同盟会とは、基督教信徒大親睦会が明治一七年に改称されて始まった会員制の集まりである。会長には本多庸一(ほんだよういつ)、副会長には小崎弘道が就任していた。大挙伝道に際し、東京市は八区画に分けられたが、そのうちの一区画としてまとめられた芝区・麻布区・赤坂区では一〇教会が連合し、大挙伝道が実施された。具体的には、明治三四年から明治三五年にかけて四回にわたって会が催され、各回では著名なキリスト教者が説教や演説などを行った。宣伝のためにチラシやポスターの配布、戸別訪問が熱心に行われるとともに、路傍伝道なども実行され、盛況だったといわれる。なお、明治二七年三月九日に明治天皇と昭憲皇太后の成婚二五年を記念して霊南坂教会が近傍の八教会と連合し、メソジストの麻布教会で祝会を開いたとの記録もあることから、従来から存在していた教会の地域的なつながりがこの機会に活かされたこともうかがえよう。 
 そして、新たな教会も設立されていった。表2-6-1-2は、明治四二年の港区域における教会の数をまとめたものであるが、明治二六年から増加したことがわかる。例えば、植村正久のゆかりで、明治三七年に赤坂区青山北町(現在の北青山三丁目)に青山派遣所が設立され、同年には青山伝道教会という名称に改められた。
 そして、カトリックによる港区域での活動もさらに展開する。明治四〇年にエルネス・オーギュスタン・ツルペンが、カトリックの麻布教会主任司祭となった。麻布には外交官の居住地や知名人の邸宅が多かったことから、教会が非公式な国際親善の場としての様相を見せており、社交的なツルペンは、寄付や慈善事業のバザーによる売上金を得て、教会の運営や活動に資したといわれる。
 また、パリ外国宣教会が明治期の日本における伝道を中心的に担っていたカトリックは、二〇世紀に入ると、教皇庁がそれまでの方針を変え、例えば明治三七年にはスペインのドミニコ会が、明治三八年にはアメリカ合衆国のポートランド司教のウィリアム・ヘンリー・オコンネルが教皇の命により来日し、パリ外国宣教会のみにとどまらない伝道が実践されるようになっていった。
 明治四一年には、「イエズスの聖心会」の修道女たちが来日した。イエズスの聖心会とは、一八〇〇年にマドレーヌ・ゾフィー・バラがパリで設立した女子修道会であり、日本にはオーストラリア管区に所属する修道女が訪れた。彼女たちが最初に身を寄せた場所は、ツルペンが用意していた麻布区麻布笄町(現在の西麻布三丁目)の家屋であり、カトリック内の協力も日本における伝道を支える要素となっていたといえよう。麻布区麻布広尾町へ移ったのち、学校の設立を視野に入れてさらに広い敷地を求めた結果、芝区白金三光町(現在の白金四丁目)の地で、明治四三年に聖心女子学院高等女学校、小学校、幼稚園を開校した(図2-6-1-2)。なお、スペインの聖心侍女修道会の支援を受け、昭和一三年(一九三八)には清泉女学院が麻布区三河台町(現在の六本木四丁目)に開校している。
 明治期の港区域はキリスト教内の協力のみならず、信教の粋を超えた交流の舞台にもなった。明治二九年(一八九六)に宗教家懇談会が芝区芝田町(現在の芝五丁目、三田三丁目)にあった松平頼英子爵別宅で開かれ、日露戦争に際しては明治三七年に戦時宗教家懇談会が芝公園内の忠魂祠堂会館で執り行われた。さらに、神道、仏教、キリスト教の有志により、互いに尊重しつつ、「和協」を達成することを目指し、明治三八年に誕生した日本宗教家協和会は、惟一館で結成された。このように、近代日本における宗教の実践に港区域の存在は大きな役割を果たしたといえよう。  (髙田久実)
 

表2-6-1-2 明治42年(1909)の港区域における教会数

東京市役所編『東京市統計年表 第8回』(1911)をもとに作成

図2-6-1-2 校舎完成時の聖心女子学院(明治42年〈1909〉)
提供:聖心女子学院