第二項 仏教・神道勢力の動向

310 ~ 315 / 353ページ
 一章六節一項で触れたように、仏教界にとっての明治維新は、受難の時代の幕開けであった。明治後期の仏教界には、神仏分離や廃仏毀釈などにより失った教勢を挽回するための活動がみられた。
 明治二二年(一八八九)四月、東京帝国大学や第一高等学校、その他私立学校の学生有志が青松寺(愛宕二丁目)に集い、仏教青年会を発足させた。同会の「創立大意」には、こう記されている。「今や憲法は既に発布せられ国会は将さに開設せられんとす」る。私たちは、「其模型の稍方正なるを歓」んでいる。しかしこれは、「政治上智力の作用」に関するものである。「宗教上の道徳の作用」は、どうであろうか。宗教は、「一己人を以て信ずるもの」ではあるが、「社会の安寧を妨げず国民たるの義務に背かざる限に於て又其情性の制すべからざる所に於て信じ得べきもの」は、「仏教を措て外に之れあることなし」。仏教こそ、「道徳の基点と為し又安心立命の地盤」である。他の宗教を否定するものではないが、仏教の勢力を取り戻すべく、「一己の信徒たるに止まらず同心協力進て外護の責任に当らんとす」。そのためにも、まずは「学問を為し以て将来に為さんとする事業の基礎を鞏固」にしたい。これが「本会を創立する所以」である(以上、『日本之教学』二一)。
 仏教青年会は、月二回、第一・三日曜日に集会を開き、仏教の研究を進めるとともに、会員間の親睦を深めた。若き仏教者たちによる、仏教再生の集いであった。
 仏教界としては、神道の影響力拡大に加え、キリスト教への警戒があった。仏教哲学者の井上円了は、明治二二年に発布された大日本帝国憲法が信教の自由を保障したことで、キリスト教の伝道が進むと想定されるため、「仏教惣体之為メニ生死ヲ決セサルヲエサル危急存亡ノ秋(とき)」である、と危機感を露わにした。そして、翌年に迫った帝国議会の開設を前に、仏教の「振起法ヲ立案」すべく、青松寺に各宗管長を集め、協議する場を設けたのである(以上、「明治二二年八月二八日付井上円悟宛井上円了書簡」『東洋大学百年史』資料編Ⅰ・上)。
 仏教界の危機感は、各派の結集をもたらした。かねてより、仏教の各宗派管長が協議会を開催していたなかで、これを組織化する。明治二三年六月、「仏教各宗ヲ協同団結シテ共ニ興隆ノ進路ヲ取テ提携運動スルヲ目的」として、仏教各宗協会が発足したのである(井村 一八九〇)。東京での各宗派の協調路線が、全国の仏教界に拡大することとなった。明治二六年頃から内務省内で仏教とキリスト教を同列に置く宗教法案が検討された。各宗協会は、これに反発し、内務大臣の井上馨や法制局長官の末松謙澄(すえまつけんちょう)に独自の仏教法案を提示するなど、仏教の再興に尽力した。なお、明治三二年、各宗協会は各宗管長会に発展している。
 明治二三年四月に開催された仏教者大懇親会の会場となったのが、光明寺(虎ノ門三丁目)であった。光明寺住職の石上北天(いわがみほくてん)が同会の発起主唱者となり、光明寺に設けられた各宗有志通信所が主催者となった。参加者は三八名に過ぎなかったものの、監獄での教誨(きょうかい)の普及、貧民教育の普及などが議決された。
 なお、明治四〇年における港区域の寺院数は、表2-6-2-1のとおりである。
 明治一五年に引き続き、芝区における曹洞宗の寺院数二九は、東京市一五区のなかで最多であった。代表的なものを挙げれば、青松寺や泉岳寺(高輪二丁目)であろう。青松寺の子院・末寺のみで、五つを数える。なお、曹洞宗の関係では、明治一五年から大正二年(一九一三)まで、麻布区麻布北日ヶ窪町に曹洞宗大学(現在の駒澤大学)も所在していた。
 次いで、神道界に移ろう。集合する仏教勢力に比して、神道勢力には離散する動向がみられた。一章六節四項でみてきたように、明治政府は、宣教使や教導職などによる国民教化を推し進めてきたが、これに挫折する。すると明治政府は、神道を他の宗教と別格扱いとした。つまるところ、神道を宗教ではなく、「国家の宗祀」と位置付けたのである。神道界では、これに追随する動きと反発する動きが、それぞれみられた。その結果、信教の自由に配慮して祭祀を儀式・儀礼とする国家神道と、これに反対しあくまで「宗教」として教化を中心とする教派神道が生まれたのである。
 前者については、明治四〇年(一九〇七)における港区域の神社数を、表2-6-2-2にまとめた。
 府社、郷社、村社の神社数は、芝区が東京市一五区内で最多である。これは、神職数も同様である。ただし、氏子数は、府社では神田区の三万、郷社では浅草区の三万六八八九、村社では浅草区の一万五八七が最多となっている。なお、明治前期と変わらず、東京市一五区で唯一の官幣社は麴町区(現在の東京都千代田区)の日枝神社であり、唯一の別格官幣社は同じく麴町区の靖国神社である。
 他方で、神道を「宗教」と位置付ける神道家たちは、いわゆる神道一三派として分離・独立した。すなわち、黒住教(明治九年)、神道修成派(明治九年)、出雲大社教(明治一五年)、扶桑教(明治一五年)、実行教(明治一五年)、神習教(明治一五年)、神道大成教(明治一五年)、御嶽教(明治一五年)、神道(大教)(明治一九年)、禊教(明治二七年)、神理教(明治二七年)、金光教(明治三三年)、天理教(明治四一年)である(カッコ内は独立公認年。独立公認年は『[縮刷版]神道事典』による)。ただし、近年では、金光教や天理教は、教派神道ではなく神道系新宗教と位置付けた方が的確である、との見方もある。
 港区域における各派の状況は、表2-6-2-3のとおりである。
 これらはいずれも、記録に残っているなかで最も古い明治四一年末日のものである。人口から考えれば、麻布区の信徒数が特筆されよう。この背景には、明治二二年に出雲大社東京分祠(図2-6-2-1)の神殿が麻布区材木町(現在の六本木七丁目)に移転されたことがある。その結果、出雲大社教の信徒のうち、東京市一五区全体の約八割が麻布区にいたのである。また、明治二九年には、神道(大教)の本部である神道本局が麻布区笄町(現在の西麻布四丁目)に移ってきたことも影響していよう。
 そのほか、神道関係では、有志の団体設立がみられた。明治二三年五月に、神職・神道学者の佐伯有義(さえきありよし)や神道家の深江遠広(ふかえとおひろ)らが惟神(かんながら)学会を設立し、本部を芝区西久保桜川町一一番地(現在の虎ノ門一丁目)に置いた。同会は、前年の大日本帝国憲法の発布を受け、日本に西洋諸国の制度が取り入れられる時期であるために、いま一度皇道を学ぼうとするところに主眼があった。研究会というよりも、さしずめ、自由な講習会であった。もっとも、明治二七年に日清戦争が勃発すると、同会は、占領地に出て皇道思想の布教にあたることとなる。
 また、明治二五年には、芝区三田四国町に大日本進徳会が設立した。皇道思想の宣揚を目的とした団体である。  (久保田哲)
 

表2-6-2-1 明治40年(1907)における港区域の寺院の状況

注)宗派の順は、東京市『東京市統計年表 第6回』(1909)に掲載されているとおり。
東京市『東京市統計年表 第6回』(1909)をもとに作成

表2-6-2-2 明治40年(1907)における港区域の神社の状況

東京市『東京市統計年表 第6回』(1909)をもとに作成

表2-6-2-3 明治41年(1908)における港区域の神道13派の状況

注1)n/aはもとになった史料に記録がないことを示す。
注2)教派の順は、國學院大學日本文化研究所編『[縮刷版]神道事典』(弘文堂、1999)による独立公認年に基づく。
東京市『東京市統計年表 第7回』(1910)をもとに作成

図2-6-2-1 出雲大社東京分祠
『麻布区史』(1941)から転載