第三項 日清戦争・日露戦争と宗教

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 周知のとおり、明治後期には日清戦争(一八九四~一八九五)・日露戦争(一九〇四~一九〇五)という二つの近代戦争が勃発した。一般に命を尊び、平和を希求する宗教界にとって、人命を奪う殺戮行為を伴う戦争といかに対峙するかは、極めて重要な課題であった。仏教、神道、キリスト教の各界はこれらの戦争に、どのように向き合ったのだろうか。
 仏教界は、日本仏教の大陸布教を制度化するための契機として、日清戦争を捉えた。彼らは、義のための対戦を認めた。日清戦争を、西洋の侵略を受けた中国に対抗し、日本がアジアの指導者となるための戦争である、と位置付けた。これは、当時の世論とも合致しており、廃仏毀釈以降弱体化した仏教自体の生き残りへの意識もあったのではないか、との指摘もある。また、公認後に勢力を増したキリスト教への対抗という面もあった。こうして仏教界は、義援金の募集や従軍布教などに尽力していく。
 神道の場合はどうであろうか。日清戦争の開戦直後、伊勢神宮(三重県伊勢市)に勅使が派遣され、宣戦奉告祭が開催された。陸軍の神宮守護部隊は、終戦まで神宮の防衛にあたった。神道の側も政府に呼応するように、戦勝祈願などを相次いで行った。日清戦争の開戦を受けて、明治二七年(一八九四)七月二四日、神道本局の管長である稲葉正邦(いなばまさくに)が兵士の健康と国威の宣揚を天地神明に祈禱することを全国に勧めている。こうした動きは、日露戦争においても同様である。なお、大陸布教の動きは、仏教と比べるとわずかであった。
 キリスト教も、仏教や神道と同じく、ほとんどの宗派で戦争協力の姿勢を打ち出した。その心の内に、社会的公認を得ようという思いがあったことは、想像に難くない。キリスト教界は、戦場の慰問やパンフレットの発行などを通じて、戦争の意義や軍人の心構えなどを説いた。日露戦争で非戦論を唱える内村鑑三も、日清戦争時点では主戦論者であった。また、麻布教会(西麻布三丁目)の会員は、日清戦争・日露戦争を前向きに受け止めた。「麻布教会会員の雰囲気は、職業軍人である教会員らの戦争談に耳をかたむけ戦況に一喜一憂」しつつ、「日清・日露戦争下を国家とともに生きることで、国家の課題をになう教会たることへの思念を時とともに強くした」と言われている(『鳥居坂教会百年史』)。
 他方で、非戦論を唱える声もあった。その中心がキリスト教のフレンド派である。日本での布教の中心であったジョセフ・コサンド(図2-6-3-1)は、明治二〇年に普連土女学校を設立したほか、明治二三年には芝普連土教会の建設を主導した。明治二七年七月に日清戦争が勃発すると、コサンドをはじめとする外国人宣教師たちは、こぞって平和を希求する姿勢を示した。一方、日本人信者の多くは日清戦争を支持し、コサンドらと対立する。その様子は、次のように報じられている。
 
 今回日清事件に就いては国民大に敵愾心を振起し基督信徒間に於ても同志会なる者を組織し従軍者の慰藉(いしゃ)奨励恤兵(じゅっぺい)等の件に付け奔走せられ居るは人の知る所なるが日本フレンド芝教会に於ても青年者は皆其の主義を賛成し運動計画に着手せしに西洋人及び二三の本邦人等斯くて普連土の主義に背馳するなりとて百方同志会に関係せしめざらんと尽力せり(『基督教新聞』明治二七年一一月九日付)
 
 コサンド自身は、フレンド派の分裂について、日清戦争の勃発はあくまで直接的な契機に過ぎず、その根源は日本人の意識の変化にあるとみた。コサンドによれば、明治前期の日本では、西洋文明が大いに尊重され、日本人の多くがリベラルであった。しかし、明治二二年の大日本帝国憲法の発布や翌年の帝国議会の開設を経て、日本人の自信が深まるとともに、独立心が高まったという。事実、日本のキリスト教界では、宣教師の権限を制限し、日本人信徒の発言力が拡大される事例が多くみられた。コサンドは、日本人フレンドが宣教師から独立しようという意識が、日清戦争への賛否をめぐって表出した、と捉えたのである。
 結局、コサンドらから関係の断絶を打ち出された戦争支持派は独立を宣言し、三田四国町(現在の芝二〜五丁目)の借家に移転するに至った。しかし、コサンドら宣教師の不在の影響は大きく、また日本フレンド伝道の後援団体であるフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会からの支持も得られず、やがて自然解散となった。なお、芝普連土教会は、明治二八年に聖坂友会伝道所と改称した。
 さて、この時期の宗教界において、港区域で最も注目すべき動きは、日露戦争勃発後の明治三七年五月一六日に芝公園で開催された「大日本宗教家大会」であろう。当時、ロシアは日露戦争をキリスト教徒と異教徒の戦争であると世界に喧伝した。他の西洋諸国が日本への支援を行いにくい構図を描こうとしたのである。日英同盟を締結し、さらに欧米で外債募集を行おうとする日本にとって、日本が異教徒とみなされる宗教戦争として日露戦争を位置付けるわけにはいかなかった。そこで日本政府は、ロシア正教を保護し、日露戦争が宗教戦争ではないことを内外にアピールした。さらに、信教の自由を保障しているとして、日本が文明国であることを国外に知らしめ、欧米の支持を得ようとしたのである。
 日本の宗教界が、政府のこうした動きに呼応するように催したものが、大日本宗教家大会である。開催地である芝公園内の忠魂祠堂会館には、仏教、神道、キリスト教などの宗教や国籍、性別を問わず、また宗教学者なども含め、総勢一五〇〇名余りが一堂に会した。キリスト教の排斥を唱えた仏教界も、その説を撤回したのである。こうして大日本宗教家大会は、参加者が会館に入りきらないほど盛況な大会となった。
 同大会では、発起人の大内青巒(おおうちせいらん)、村上専精(むらかみせんしょう)、小崎弘道(こざきひろみち)らの演説などが行われた。発起人の一人で、神職であり国学者の平田盛胤(ひらたもりたね)は、福澤諭吉が明治一〇年に起きた西南戦争の原因を、西郷隆盛と大久保利通の不和にあったとみていたことを指摘する。両者の親睦が続いていれば、西南戦争が起こらなかったばかりでなく、「日本の国民の利益」であったと述べる。そして、日露戦争の勃発を受けて、「宗教家が相親睦したならば国家に与ふる所の利益は西郷先生と大久保公と親睦して国家を益する事に比較しても或は大に勝るとも決して劣ることはなからう」と語った。
 大日本宗教家大会では、宣言書が表明された。それは、黄禍論(こうかろん)(黄色人種脅威論)を唱えるロシアを批判し、「日露ノ交戦ハ日本帝国ノ安全ト東洋永遠ノ平和トヲ画リ世界ノ文明人道ノ為ニ起レルモノニシテ毫モ宗教ノ別人種ノ同異ニ関スル所ナ」く、「此交戦ノ真相ヲ宇内ニ表明シ以テ速ニ光栄アル平和ノ克復ヲ見ンコトヲ望ム」ことを決議するもので、日露戦争が宗教戦争でないことを強調したのであった。
 衆議院議員であり東京市長であった尾崎行雄(おざきゆきお)は、政治家の立場から大会で祝辞を述べている。尾崎はまず、日本が政治上も、経済上も、宗教上も、「開放主義」をとっているのに対して、ロシアは「閉鎖主義」であるとし、ここに日露戦争の要因があるとした。その上で、「公明正大なる宗教家の大会が開かれたと云ふことは最も喜ばしき次第である」と、歓待の声を上げた。
 一方で東京府知事の千家尊福(せんげたかとみ)は、宗教者の立場から大会を賞賛している。その内容は、「宗教家の諸君が一致協和をして此大会を開かるるに至」ったことを評価するものであった(以上、『宗教家大会彙報』)。日露戦争は宗教戦争ではない、という政府の表明に対して、キリスト教フレンド派の分裂こそあったものの、宗教界全体としてはそれまでの対立を乗り越えて、これに同調したのである。
 先述のとおり、この大日本宗教家大会の会場は、芝公園であった。芝公園には、かつて大教院が置かれ神仏の接近が試みられたものの挫折した増上寺もあることから、「なんとも皮肉なことであった」と指摘されている(小川原 二〇一〇)。  (久保田哲・髙田久実)
 

図2-6-3-1 ジョセフ・コサンド
普連土学園所蔵