この節では、港区域にとっていわゆる「郷土連隊」である「歩一」・「歩三」の動向を通じて、明治後期に日本が経験した日清・日露の二度にわたる対外戦争をみていくこととしたい。
日清戦争は、近代日本が経験した最初の本格的な対外戦争であった。直接的な戦争の原因は、明治二七年(一八九四)一月に朝鮮国内で勃発した東学党の蜂起に端を発する甲午(こうご)農民戦争となるが、戦争そのものの遠因には、ロシアの南下政策とそれに対する日本の安全保障戦略や、日清関係や日朝関係などをめぐる東アジア情勢など、様々な要因が挙げられる。
日本は、その安全保障上、朝鮮半島がロシアなどの大国の影響下に置かれ、その圧迫を受けることを避けるために、朝鮮半島に親日的な安定した政権が誕生することを望んだ。これが、朝鮮国内における近代化を目指す開化派に対する支援へとつながっていく。
朝鮮では明治一五年の壬午(じんご)事変において大院君が失脚して閔妃が実権を掌握すると、閔妃はしだいに親日的な態度を転じて清との関係を深めるようになり、清の支援のもとで近代化を推進しようとする事大党と日本の支援のもとで近代化を推進しようとする独立党の対立に転じた。つまり、朝鮮国内における近代化をより積極的に推進しようとする開化派は独立党として結集し、保守派は清と朝鮮の間の従来の関係を重視して事大党として結集したのである。明治一七年の甲申(こうしん)事変において、独立党は一時的に政権を掌握したが清国軍の介入によってクーデターは失敗し、朝鮮国内における親日派の影響力は大幅に減少することになった。甲申事変において日清両軍の衝突が生じたため、不測の事態を避けるために天津条約が締結され、以後、朝鮮への出兵は両国ともに事前通告の後に行うこととされた。
こうした状況のもとで、日本が朝鮮への経済的な進出を強めるに従って朝鮮国内の経済の疲弊をもたらし、甲午農民戦争が勃発するのである。朝鮮政府は清に救援を要請したため、天津条約に従って明治二七年六月六日の対日通告ののち清は、二四〇〇名の兵力を朝鮮に派兵した。一方の日本も公使館と居留民の保護を理由に七日に清に対して出兵通告を行ったあと、約八〇〇〇名の兵力を朝鮮に派兵した。朝鮮政府は東学党との講和を理由に日清両国に撤兵を要求したが、日清両国ともにこれを拒否し、朝鮮における日清両軍の対立が続いた。ときの第二次伊藤博文内閣は七月一一日に清との断交を表明する「第二次絶交書」を閣議決定し、清との戦争の決意を固める。七月二五日に豊島沖で東郷平八郎が指揮する日本艦隊が清国艦隊を攻撃し、次いで二九日には成歓で日清両陸軍部隊が激突して清国軍が平壌に撤退するなど、陸海で戦端が開かれたあと、八月一日に日清両国が宣戦布告を行い、日清戦争の開戦となった。
日清戦争は、朝鮮半島や遼東半島、黄海などを主戦場としたが、陸海ともに日本側優勢のうちに戦局は推移した。陸海ともに日本の攻勢を防ぐことができなかった清は李鴻章(りこうしょう)を欽差(きんさ)大臣(全権大使)として日本に派遣し、伊藤博文との講和交渉の結果、明治二八年四月一七日に下関条約が締結され、日清戦争は日本の勝利によって幕を閉じた。
日清戦争における戦力を比較した場合、日本が陸軍七個師団の約二四万人と海軍艦艇五二隻を動員したのに対し、清は陸軍約九八万人と海軍艦艇一〇七隻を動員するなど、戦力において日本は劣勢であった。それにもかかわらず、日本が終始優勢を保つことができた理由は、近代的な国民軍を確立していたことが大きいと考えられる。
日清戦争の結果、日本は朝鮮を清から独立させてその影響力を排除し、日本の安全保障を確立するという目的を達したが、その一方で遼東半島をめぐる三国干渉を招き、ロシアの南下政策に直面することとなった。三国干渉に対する国内の対露世論の硬化とロシアの南下政策への対抗が日露戦争へとつながっていくことになる。