日清戦争と第一連隊

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 一章七節でみてきたように赤坂檜町を衛戍地(えいじゅち)としていた歩兵第一連隊は、宣戦布告から約一か月が経過した明治二七年(一八九四)八月三〇日に、所属する第一師団への動員令に従って充員召集を開始した。以下、『歩兵第一聯隊史』および『歩兵第一聯隊歴史』に基づき、歩兵第一連隊の日清戦争における動向を略述する。九月二四日、青山軍用停車場から広島の大本営に向かって出発し、第一師団が大山巌を軍司令官とする第二軍の編制となったため、第一連隊は第二軍の隷下(れいか)(指揮下)に入った。
 三隻の輸送船に分乗して一〇月一六日に宇品(うじな)港を出港した第一連隊は、二四日に清国遼東半島の花園口(かえんこう)に上陸し、大陸での戦闘に参加した。
 第一連隊の最初の本格的な戦闘は金州(きんしゅう)城攻略作戦で、一一月五日に戦闘は始まったが、翌六日には金州城の占領に成功している。続いて、旅順(りょじゅん)要塞の攻撃にあたることになったが、旅順要塞は清国軍兵力約六〇〇〇と、大小一五〇門あまりの火砲を擁して十分に防備を固めており、その攻略が難航することが予想された。一一月二一日に開始された旅順要塞攻撃には第一連隊のうちの第一・第三大隊が参加したが、清国兵の戦意の乏しさなどもあり、予想に反して一日で旅順要塞攻略に成功した。一方で、師団の予備戦力として控置されていた第二大隊は、金州城を守備する歩兵第一五連隊が約八〇〇〇名の清国軍による攻撃を受けて苦境に陥ったため、旅順要塞から敗走する清国兵の追撃を行いつつ、金州城の第一五連隊に対する救援を行った。
 旅順要塞攻略後は、第一軍(山縣有朋から野津道貫に軍司令官交代)が遼東半島西方の遼河平原に進出して海城(かいじょう)を攻略したため、第一連隊は第一五連隊とともに乃木希典指揮の混成旅団として編制され、第一軍の支援として蓋平城の攻略作戦に従事し、明治二八年一月一〇日に攻略を完了した。その後、蓋平近郊の太平山をめぐって日清両国軍が戦闘となり、二月二一日から二四日に及んだ。二四日の戦闘で清国軍は撃退されたが、冬季に日没後まで戦闘が続いたこともあり、第一連隊の四七六名もの将兵が凍傷となるなどの被害が生じた。
 さらに、遼河平原にある清国軍の防衛拠点である営口(えいこう)・田庄台(でんしょうだい)・牛荘城(ぎゅうそうじょう)に対する第一軍の攻略作戦の支援のため、第一連隊も三月四日に営口の攻略に向かった。牛荘城や田庄台などでは激戦が繰り広げられたが、営口の清国軍は撤退していたため、第一連隊は六日に同地を無血占領することに成功した。その後は、北京方面を目指すいわゆる直隷作戦の準備に入ったが、三月三〇日に台湾以外の全地域における休戦が成立し、四月一七日には日清両国間で下関条約が締結され、講和が成立したため、五月二〇日より順次復員を開始した。六月九日に第二大隊が赤坂檜町の駐屯地に帰還したことで全部隊の復員が完了する。
 なお、『歩兵第一聯隊史』によれば、日清戦争で第一連隊が参加した戦闘のうち、最も多くの被害を生じたのは蓋平城の攻略作戦で、下士官・兵二八名が戦死し、士官七名と下士官・兵二五四名が負傷している。蓋平城に対する日本軍の攻撃ルートは平滑地が多く、頑強に抵抗する清国軍からの射撃を長時間にわたって受けることになったため、第一連隊は多くの死傷者を出した。ちなみに、同書によれば、日清戦争における戦闘全体での第一連隊の死傷者数は士官・下士官・兵合わせて三三六名であり、蓋平城の攻略作戦以外ではそれぞれの作戦における死傷者数が十数名であったことなどからも、蓋平城攻略作戦が激戦であったことがうかがえる。