日清戦争と第三連隊

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 麻布龍土町を衛戍地としていた歩兵第三連隊も、第一連隊と同様に、所属する第一師団への動員令が明治二七年(一八九四)八月三〇日に発令されたことを受けて充員召集を開始する。以下、『歩兵第三聯隊史』に基づき、歩兵第三連隊の日清戦争における動向を略述する。九月八日には動員を完了し、その後は召集兵の訓練などを行い、九月二四日に連隊本部が新橋駅を、それ以外の連隊の部隊は二六日に青山軍用停車場から広島の大本営に向かって出発した。第一連隊と同様に第二軍隷下として一〇月一八日に六隻の輸送船に分乗して宇品港を出発した第三連隊は、一〇月二七日に遼東半島の花園口に上陸して、大陸における戦闘に加わった。
 第三連隊は、上陸地点の警備にあたった第三大隊を除いて金州城攻略作戦に参加したが、金州城への攻撃ではなく、金州城と旅順方面の連絡を遮断し、周辺地域の制圧を担当することになった。
 金州城攻略後、上陸地点の警備を終えて第三大隊も合流した第三連隊は、旅順要塞攻略を前に旅順方面への偵察・警戒に当たっていた。一一月一八日、双台溝近郊において、清国軍の攻撃を受けた独立騎兵大隊からの救援要請を受け、第一大隊の第二・第三・第四中隊が救援に向かったが、清国軍は約二〇〇〇名の兵力であり、苦戦を余儀なくされた。その後、第三大隊の救援などもあって清国軍の撃退に成功したが、この戦闘で士官を含む一二名が戦死している。
 一一月二一日の旅順要塞攻略作戦に参加した第三連隊は、要塞の砲台を次々と占領するなど要塞攻略に活躍した。
 旅順要塞攻略後、第三連隊は金州城近郊において一一月三〇日より冬営に入り、しばらくの間、戦闘から離れた。冬営中の第三連隊は、一二月一九日に軍旗祭を開催し、二一日には戦死者の鎮魂祭を行うなどして明治二八年の元旦を迎え、英気を養っていた。なお、軍旗祭とは、連隊が天皇から軍旗を下賜された日を記念して開かれる行事で、近隣の住民にも衛戍地を開放し、連隊の士官から下士官、兵に至るまでが様々な出店や出し物などを行う一大イベントである。明治二七年の第三連隊の軍旗祭は出征地における開催となったが、軍司令部や師団司令部の将校をはじめ、各国の駐在武官、新聞記者など多数が列席し、大変な盛況であった(図2-7-1-1)。
 二月一〇日、第三連隊の上級部隊である第一師団が第一軍支援の命令を受けたことにより、第三連隊も遼東半島西方の遼河平原に進出し、二四日には、乃木希典指揮の混成旅団とともに七里溝(しちりこう)で清国軍との戦闘を行った。第三連隊は、二六日に海城に到着すると、その後、三月五日まで同地の守備にあたり、九日には田庄台攻略作戦に参加した。田庄台攻略作戦は、第一軍の第三師団・第五師団と第二軍の第一師団の三個師団が参加するなど、日清戦争中、日本軍が最大の戦力を投入した作戦であり、市街戦闘も行われた激戦であった。ただし、第三連隊が田庄台近郊に到着した際には、すでに清国軍は撤退を始めており、第三連隊は追撃戦に参加して多大な戦果を挙げている。
 その後の第三連隊は、三月一三日に蓋平、四月二二日には李家屯(りかとん)に駐留しているが、四月一七日に下関条約が締結されたことで日清両国の講和が成立し、五月一九日より戦地からの復員を開始する。六月一〇日に第三連隊の全部隊が麻布龍土町の衛戍地に帰還して復員を完了した。
 なお、『歩兵第三聯隊史』によれば、日清戦争における第三連隊の戦没者は、戦死が士官二名、下士官五名、兵士三四名、病死が下士官二名、兵士三四名で、合計七七名であった。  (門松秀樹)
 

図2-7-1-1 軍旗祭の様子(写真は昭和期)
歩兵第一連隊兵舎に移駐してきた近衛歩兵連隊によるもの